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古代メモY ー 記載事項リスト ー
[ MEMO 059 ]1999.11.24 鉄鉱石を求めた人々 [ MEMO 058 ]1999.11.14 怨霊と神社の祭り [ MEMO 057 ]1999.11.13 蝦夷についての雑感 [ MEMO 056 ]1999.11.10 突然、大野そして南部 [ MEMO 055 ]1999.11.10 北関東埼玉児玉郡辺りのこと(3) [ MEMO 054 ]1999.11.8 北関東埼玉児玉郡辺りのこと(2) [ MEMO 053 ]1999.10.31 北関東埼玉児玉郡辺りのこと [ MEMO 052 ]1999.10.25 北摂津地域と稲作 [ MEMO 051 ]1999.10.23 風土記について想うこと [ MEMO 050 ]1999.10.23 諏訪明神様 [ MEMO 049 ]1999.10.22 波田家山と畠山?まさかー
[ MEMO 059 ]1999.11.24 鉄鉱石を求めた人々 信濃から北関東へそして日本海沿岸を本州の北の端へ、継体天皇の命を受けておそらく 迅速に出向いたことと推理します。安曇の水軍は過去の情報を駆使して古代から定着 している集落を拠点に東北全域に及んだことと察します。農耕民を伴ってのこと。 当然ながら婦女子は連れて行かず現地で生活する中で補うこととなります。 蝦夷の民との混血が成立したと考えます。鉄鉱石の供給は六世紀の間にほぼ目途が立った ものと思います。朝鮮半島への進行にその目的が希薄になったからで軍事の担当である 物部氏の衰退を考えると理解できるのではないか。それは地方の豪族の力を結集すれば 可能なことであり、彼らを従属管理する律令制の枠組みが動き始めたことと一致しています。 では東北に派遣され鉱山に従事した民は故郷に戻ったのであろうか。律令制の束縛のない地に おいて定住した民にとっては楽園に等しい土地であります。かってのまほろばの地は稲作を加え さらに楽園であったろうと推理します。律令制という鉄枷が北上するにつけ蝦夷の民の抵抗が 始まることを後にみれば分かります。七世紀の遠征軍への受け入れを見る限り、北海道の蝦夷 とは逆に好意的な理由を考える時、全くの異民族とは考えにくいのです。 五世紀までは視察であり交易の対象として大和では蝦夷を捉えていたと考えます。七世紀に おいても未開墾の土地への入植が目的であったと考えます。 鉱山従事者や農耕民に選ばれた人々はおそらく帰化した人々であったとも推理します。 福井や岐阜の民あるいは水軍の人々を構成していたのも彼らではなかったか。 彼らにはパイオニア精神があります。与えられた土地で生き抜くパワーが宿っていますし 子孫へとそれは引き継がれていったものだと思います。 鎌倉時代において坂東の地と異なり東北の民が平和を好んだことは歴史を辿れば明らかです。 この点は来年詳しく語っていきますが後の歴史も含めて共通したものを覚えています。 歴史家は坂東との違いを自給自足の度合いの違いとか藤原氏の性格を挙げていますが それは歴史に記載された事柄の上での考察で実際はそうではない。もっと根にあるものだと 私は思っています。 [ MEMO 058 ]1999.11.14 怨霊と神社の祭り 神社の祭りの日に、御霊が開放され、思い切って暴れて怨念を発散するという。 木津の布団神輿に触れつつ、今日の「京都遊行」は怨霊と神社の祭りの関係を探っていました。 木津御霊神社の怨霊神は藤原広嗣であり、上桂のそれは橘逸勢という。他に六社あって 八社御霊としているそうです。このあたりになると全く今は理解が及ばないです。 ただ、敢えて「上桂のそれは橘逸勢という」を掲げたのは、理由があります。個人的にです。 実際は現在の中桂に神社があって、ここでいう御霊神社に相当するか調べてみないと分かり ませんが集落の少なさから判断してりっぱな舞台を持った神社だといつも感心していたのです。 その鳥居の入り口辺りに「風間・・・」という寄進された御影石でできた石柵があって記憶に あるのです。何故ここに風間なのか。最近神社への関心が深くなって行くと祭神は誰か 確かめる習慣が出来ました。そこは橘逸勢という人でした。聞き慣れない名前なんで覚えて いましたが何か怨霊となることがあったのか、早速調べてみたいと思います。 「国境には必ず強い神を勧請してまつった」柳田國男はしきりに強調したそうです。 奈良と山城の境、木津に藤原広嗣が勧請されているのです。 橘逸勢という人は嵯峨上皇が亡くなってすぐに藤原良房の権勢欲によって無実ながら非人にされ 伊豆への流罪途中にこの世を去ったという。その後に惟喬親王が彼の標的になったようです。 橘逸勢の一族は約一世紀前にも藤原氏から家門を潰されています。 [ MEMO 057 ]1999.11.13 蝦夷についての雑感 蝦夷地の歴史 十和田湖の南に雄物川が流れ日本海に注いでいますが658年に阿部比羅夫が第一回の 遠征をこの地に行って二年後に第二回目を挙行し、その折に津軽半島の湾岸近くで 東北の蝦夷と異なる種族と交戦している。 八世紀の後半になると南下した蝦夷の拠点は北上平野の胆沢付近に達していて陸奥・出羽 の官人との交流が為されていたといいます。桓武天皇の前光仁天皇の時に陸奥・伊治郡で大領の 伊治氏が謀反を起こし多賀城を略奪したのが780年。大規模な征討が為されるまでに 七年費やしている。その征討の決戦舞台が北上平野で平泉に征討軍が一ヶ月駐留している。 そしてさらに十数年費やして坂上田村麻呂将軍の時に終結したのです。 このようにして出羽国・陸奥・坂東などに住む民は戦への訓練を八世紀に為したのです。 何かベトナム戦争のような様相ではありませんか。 ちなみに胆沢付近の住居跡の始まりは4〜5世紀らしいです。 これから推理しようとしていることは、六世紀前半の津軽地方のことです。 「古墳時代に属する東北地方の竪穴式住居は蝦夷と呼ばれた人々の家と思われるが、その発掘 調査でも、蝦夷を古代日本人と別な民族とすることは困難であるという。」と『日本の歴史』 (中央公論)に書いてありました。藤原四代の遺体が平泉の中尊寺にミイラとなって残って いて、アイヌらしい面影は認められないとのことらしい。 478年の倭王武の上表文に書かれている東のかた毛人55国を征しというのは大規模な征討を 実施してのことではなく徐々に東国に浸透していって大和に服従したと考えるのが妥当と思います。 五世紀における蝦夷地の情報は継体天皇時に服従の目的よりは鉄鉱石の確保の上で利用された というのが推理の前提にあるのです。 従って今後のメモは小説のメモと捉えて下さい。八世紀以降の歴史は来年から改めて着手します。 [ MEMO 056 ]1999.11.10 突然、大野そして南部 茨城県新治村の近くに友部町があって、さらに北へ行くと白川の柵址に通ずる。 その手前に久慈郡があります。そこには花園・妙見山・男体山という名前が見えました。 地図の旅は楽です。久慈を検索しましたら岩手の久慈市に飛び、そこに大野村が 隣接しています。近くに南部町がありそこは馬渕川の上流でした。 北海道にある大野は有名らしく検索には必ずありました。これらは私の覚え書きです。 信濃から辿ってきましたが主に陸路でした。しかし継体天皇の時代には航路は水軍として 重要な位置付けにあります。秦氏の勢力も和歌山沖にも達していたはずですから 日本海沿岸航路だけではなくて太平洋沿岸航路も少しは考慮すべきかもしれません。 ともかく秋田・青森への直接派遣も考慮しなければなりません。本州の果て地は 縄文時代より栄えたところ、もし派遣された人々が定住するなら太平洋沿岸しか 場所はなかったのではないだろうか。つまり八戸周辺なんですね。 六〜七世紀の蝦夷地との紛争は単に土着の民との抗争と思い勝ちではありますが少し 見方を変えて六世紀初めに鉱山探しに派遣された人々の加担も考慮してもいいように 思います。いうならば、蝦夷征伐のずっと以前に文化的な交流が既に為されていた という視点に立ってもいいのではないでしょうか。 [ MEMO 055 ]1999.11.10 北関東埼玉児玉郡辺りのこと(3) 武蔵武芝は足立郡にいたという。荒川を超えると下総になる。また源経基の城址の碑が 埼玉県鴻巣市にあるという。鴻巣市も足立郡も中山道に沿って位置しています。 ふとここから直角に転じて陸奥に向かってみるかと思いました。蝦夷と小野小町をキーワード にして少し遡ってみようと、無論時代も遡るのが目的です。芭蕉も辿ったことでもあります。 小野小町伝説のある秋田雄勝や福島小野町それに小野小町が永眠したという茨城県新治村を 地図で見ました。いずれも山間なのです。当時にはまだ外洋に出られる船はなかったといいます。 しかしながら航海術はかなりのレベルにあったものと推理できます。小町は女性ですから 陸路は恐らく主には辿らなかったであろうと思います。とすれば秋田沖から日本海沿岸に 行くか久慈とか九十九里浜沖からの都行きと推理できます。晩年東北で過ごしたとすれば 航路は辿ったでありましょう。更科日記にあるように関東から都に陸路を辿るのは至難で あろうと考えられます。空海の頃の船の脆さは指摘されていますが沿岸航路は安心できる ものと推理できます。 [ MEMO 054 ]1999.11.8 北関東埼玉児玉郡辺りのこと(2) この地域は将門がいた当時、武蔵の国で国府は府中にあった。源経基が武蔵下野介になって 武蔵権守と郡司の武芝との間で争う事件が起き、それまで下総の中でのみ留まっていた将門が 義侠心を伸ばして隣の武蔵の国の争いに仲裁を自ら買って出たところから大事件へと発展した ということです。しかも新任の源経基の当時としてはやむを得ないと思われる状況把握の 失態から加速した。本来ならゆるやかに進行したはずの歴史の移行は将門にとっては不運な 流れに向かったといえます。「将門記」の作者は仏僧とされています。 事は終息したものの、時代の流れはそれをまた蒸し返すことになっていきました。 この話は来年また改めて取り組みます。 武蔵武芝に今は注目しています。彼の拠点地が未定ですが、彼を支持していた集落の一角に 児玉郡辺りの土豪がいたのではないかと想像しているのです。後の児玉党結成の基盤と重なる のではないかと推理しています。将門討伐の際に東山道追捕使として小野維幹が任ぜられており 将門敗因である武蔵の国の戦列不参加などを推理しますとどうしても8世紀までの歴史を捉えて おく必要がまだまだあるように思います。 ー今週の京都遊行メモー 源経基の屋敷跡は六孫王神社や大通寺のかってあったところ。現在はその上を東海道線と新幹線が 通っている。大通寺は少し南に移ったが源町という地名が今もあります。壬生八条上がるところが 大邸宅のあったところで平清盛の祖の邸宅と並んでいたといいます。 徳川家は大通寺を大切に庇護していた為に明治新政府がその敷地の上に鉄道を通したと考えられて いるとか。しかしそれは考え過ぎでたまたま没収して国有地になった場所に鉄道を設置したので あろうと現在の路線をみると私は思います。 フィールドメモの中に触れてありましたが川端康成が愛した言葉「仏界入り易く、魔界入り難し」 は一休宗純がかって書き、さらに遡ると将門記の入定の段に書かれている言葉だといいます。 [ MEMO 053 ]1999.10.31 北関東埼玉児玉郡辺りのこと 先日の停電でこの項の原稿が無くなり、改めて書いてます。 確か葛生郡にあるページを訪ねた折の話です。資料も記憶もないので詳しくは後日ということで。 そこに、明石原人に近い頃の葛生原人の痕跡があるというのです。そして原人祭りが現代になって 継続して開催されているということでした。彼らの子孫であろう古代人が南は児玉郡、西は桐生まで 北関東一帯に定住したと書いてあったと記憶しています。 一方で石棺を本で読んでいましたがそこには上記のエリアにある墳墓の石棺材は奈良・近畿・九州産 があって帰化人である石工ともどもこの地にもたらされたと推定されるとありました。 二世紀〜四世紀といえば大和政権が発足する頃です。しかも福井地方から九州地方へ石棺の形式が 逆流したと思われるものも事例としてあると書かれていました。 考古学からの調査研究において、石棺の研究は方円墳と同じ位進んでいるらしく、今後注目したい ところです。石棺技術は日本海沿岸とりわけ越前からの波及と考えてもいいのではと思っております。 児玉郡には鬼石町がありますが、鬼神神社というのがここか葛生町にあったようです。また調べ 直しておきます。 [ MEMO 052 ]1999.10.25 北摂津地域と稲作 宝塚・川西・池田は北摂津地域の丘陵地帯ですが上代より猪名野・稲野といわれ、稲作に関する 地名や遺跡や伝説が沢山あるという。豊受大神はその中の稲倉山に住んでいたと「摂津風土記」に 書かれていて、「事の故ありて、のぞむこと得ずして遂に丹波国へ移っていかれた」とある。 当地は丹波国の入り口であり、瀬戸内航路の要所でもあります。まして稲作の盛んな土地でしたから 南の侵略者にとってはまずもって軍事上押さえておきたい土地です。 南の侵略者とは天孫一族・海神一族と考えられています。(豊玉比売が売布神社境内に祀られている) それがいつのことかは分かりませんが、丹後の海部氏が伊勢へ移動する前であることは言えることです。 「宝塚の風土記」では物部一族とありますがそれは後に書き加えられたものと考えます。 邪馬台国登場以前と私は考えています。豊受大神は出雲族の一団、奈良には三輪族という別の出雲族 が同時期にいたというのは推理しうるところです。丹波亀岡ー京都間を開通したのが秦氏であるとすれば それ以前の古道としては丹波亀岡ー北摂間と推理できます。 応神朝の前崇神朝の頃の話ではないかとも考えられますが、これからの推理に残しておきます。 [ MEMO 051 ]1999.10.23 風土記について想うこと 朝から物置で探し物をしていましたが、「宝塚の風土記」(川端道春著)をたまたま見つけ読んでみました。 民話と伝説と地名の由来と副題されています。私は新婚当時宝塚の西にある売布神社駅に住んでいました。 この名前と宝塚沿線に住んでみたいという漠然とした思いから決めたことでした。売布神社という言葉の 意味に関心が起きたのは最近のことです。当時、実家の環境に似ていたことが気に入ったものと考えます。 本の中に売布神社のことが説明されていました。丹後風土記に書かれていることを古代メモでも少し 転載していますが、豊受大神は穀物神とされています。この神の降臨地は羽衣伝承と重なる丹後なのですが 居場所は転々とされ最後は伊勢の外宮に鎮まります。それを逆に辿っていくと売布神社の地だと書かれて おります。神社の由来記では大国主の娘・下照比売神が苦しむ民に布織りと稲作りを教えた後に、何か 特別な事情で心ならずも丹波まないー丹後へ移って行かれたとあります。 (私が今まで居住した所はこの売布神社と京都舞鶴・東京北千束・横浜日吉そして当地嵐山の五ヶ所です。) 人それぞれに風土への想いがありますが、この本を読んでみて自分の風土観を織り交ぜながら まとめてみるのもいいかなと思っています。これから先のことではあります。古代メモを振り返って みてもそう思います。松尾芭蕉のように晩年を送るのも楽しいかなと思い描いてしまいました。 ついでに興味ある内容としては攝津源氏の祖源満仲の弟満政が建立した八幡神社の前身が諏訪明神で あることや、坂上田村麻呂が京都の松尾神社と因縁あって後裔が宝塚に松尾神社を建立したとか、 信濃や足利の牧の原型が推理できる荒牧の地や京都大原野と関りがあると推理できる(長岡京遷都後) 大原野という地のことなど関東の東山道や旧鎌倉街道と同じ位丹波ー攝津池田ー宝塚ーの古道は 関心が深まりました。 [ MEMO 050 ]1999.10.23 諏訪明神様 moonさんから教えていただいた「私の散歩道」というページに諏訪明神についてこう書かれていました。 「諏訪の地には、諏訪明神がいて「明神様」などと呼ばれています。  この明神様は、もとから諏訪にいたのではなく、遠い昔、他の地から諏訪へやってきたらしいのです。 しかし、その頃、諏訪には既に洩矢(もれや)神がいて、洩矢族の人々が暮らしていました。  このため、やってきた明神様と洩矢神との間で争いが起こり、洩矢神は鉄の輪で、明神様は藤の枝を 持ち、川をはさんで両者が戦うこととなってしまいました。  この戦いで勝ったのは、明神様です。以後、洩矢神は明神様の家来になったということです。」 そこで明神様について検索しましたら明神館というページに次のことが書かれていました。 「穂高神社奥宮は俗名、穂高見命(俗名)の神様が祭られています。 穂高見命の見とはオサメルという意味のようです。 綿積(海神・わだつみ)の神の嫡子。神武天皇の叔父さんにあたるようです。 安曇、綿積、住吉等、綿積系の領地の形跡は、北九州、大阪はじめ西日本各地に点在します。 菊のご紋が使われています。天皇家の東の要です。 物部氏、蘇我氏等が台頭する以前の、天皇家直属の軍であり、特に、綿積の神を父とする 安曇一族率いる海軍は、天皇家が主に海軍を使っていることからも最強の軍隊。 外にも、安曇野の治水等の功績があります。出雲系、諏訪一族、上社祭神、建御名方との 抗争が有ったのか、妹は政略結婚により、諏訪大社下社の祭神らしいです。 (海に関わること、戦い、外交、貿易、旅行、及び車等に良い。) 天皇家の海軍大臣、兼外務大臣なのです。天皇政権が確定した時点の子孫は、中臣氏(藤原氏)と 同じく、安曇連。又当然のことながら、穂高をオサメテいます。 ちなみにアズミとは、ワダツミのナマリのようです。 御神体はもちろん頭上、穂高岳。 穂高見命が、この山を好んだ為に付けられたのが穂高の名前の由来か、槍ふすまの穂の様で、 穂高と呼ばれていた山を、命が好んだので、穂高見命と呼ばれたのか、定かでない。 どちらにしても、数年間、現在の明神付近に、住んでいたようです。 2千年程昔には、おそらく河童橋より下流は、峡谷であったっでしょう。 穂高大明神に由来して、現在は、明神岳と呼ばれています ウェストンの紹介にも、穂高岳の事を、別名、立穂の山、と呼び、南麓を梓川が流れとある。 いわゆる明神岳の事を、指している。大正時代初期になされた山岳名の大変更により、穂高岳と 言われていた山群が、明神岳の山群と、前穂の山群に、分けて地図表示されることとなったのです。 明神岳は、穂高岳の尊称にして、穂高連峰の中心の山となります。 明神岳の山群全部と前穂にかけてが、昔の穂高の主体であったのですから、近年もてはやされている 河童橋からみる穂高連峰は明神岳も前穂も目立たなく穂高の奥にあるはずの奥穂が真っ先に見えます。 実は穂高を側面から見ていることにもなります。」 安曇一族率いる海軍は継体天皇が派遣したもの、そして治水の功績は陸軍である波田氏だろうと 推理できます。以前諏訪のページで読んだ諏訪上・下社の由来伝承話とも結びつきます。 諏訪大社上・下社の抗争については、金刺氏の任地の頃にもあり、その後も何かと分かれて 抗争することになります。信濃の地区は蝦夷・熊襲と同様に遅れて朝廷の支配下に組み入れ られていることから、地域性もありますが地元豪族の連帯の強さが伺えます。安曇一族の 気骨が背景にあると思っています。神氏の定着については継体以後金刺氏の任地以前の間と 今は考えています。 [ MEMO 049 ]1999.10.22 波田家山と畠山?まさかー これは冗談ですが、少し余談をさせてもらいます。 児玉党という平安末期から鎌倉時代にかけて全国にその郎党が広がった集団が関東平野の西山麓 一帯に本拠を構えていました。この辺には牧という馬の飼育地が点在していまして、いわば 牧の頭領達の集団であったろうと思っています。彼等は都にもその馬術を披露しに行ったものと 推理してます。葛生原人で有名な葛生町という所がありますが、そこには牧歌舞伎というものが 江戸時代からの行事として今も残っているといいます。かぶくことが好きな人々なんでしょうね。 かぶくと言えば伊達正宗を思い出してしまう。 戦国時代を畠山氏のこともあって少し概観していたら、戦国武将評の中に興味あることが書いて ありました。彼等は初め藤原氏が祖先だと称したそうです。織田・徳川なども。後に源氏や平氏に 変わっていきますが初めは藤原氏なんです。地方豪族や武士もこぞって祖先を藤原氏に結びつけ 勇猛果敢に歴史の舞台へ参画していくのです。いずれもかぶいているのです。どうやら日本人の 特徴になっているようです。最近の茶髪などは一種のかぶく行為と思えます。 かぶいてばかりではしょうがないので実も育んで欲しいところです。 なにしろ古代の足跡は遠い昔ですから、平安・鎌倉・室町・戦国・江戸と時代が移った後に 推理するのは難しいです。逆に推理もできるということではありますけれど。 少なくとも、足利氏や鎌倉源氏が天下を掌握できた背景には古代人の足跡があってのことと いえるのではないでしょうか。児玉党に関連する氏名をみていくとついつい懐かしい人々の 顔が現れてきました。それだけ全国に長き歳月かけて浸透していったのかと思い馳せてしまう。 例えば県人会というものだって短い間ながら凄い組織になっていますから当然といえばいえます。 歴史を辿りつつ地域を知っていくのも何かこれから先自分なりの風土観が持てるようにも 思ったりしています。 ー 続く ー

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