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古代メモX
ー 記載事項リスト ー
図の下中程から南へ由良川を遡ると福知山、さらに綾部ー園部ー亀岡と南下して京都に至ります。
大江山の頂上から京都方面を眺めた時、今の私の感覚でもそう遠い距離には思えません。
健脚の古代人から見れば軽く日帰りの行程と思っていたに違いない。しかし戦となれば難所であり
守勢にあっては心強い道程であります。独立王国の立地条件は充たされています。
出雲と大和の対立、九州と大和の対立から、丹後と大和の対立さらには琵琶湖湖岸地域と大和の対立
を加えた広域展望を邪馬台国についてはしなければならないと思います。
私の一つの考えでは、由良川を遡るルートが重要だとしています。蛇行しつつ南西に辿るこの航路は
太陽の日出の方角を狂わせるものではないかと考えます。これが仮に南とするならば日の出の先には
京都・奈良盆地があります。
分水嶺は丹波高原で、この広い台地は丹後あるいは京都から見ても重要な拠点となるに違いないと
以前から考えています。
[ MEMO 040 ]1999.9.13 番外編(1)阿蘇という地名
岡山の古墳群の近くに阿蘇という地名があります。その他にも忘れましたが地名としてあちこちで
何故阿蘇なのかと思いつつ過していました。諏訪大社関連を見ている中で、下社を設ける為に
都から派遣された金刺氏のことが書いてあり、その系譜に阿蘇氏がありました。検索で分かったのは
このページの末尾に参考資料として掲げさせてもらいましたが、火の神を御神体とする阿蘇神社の
宮司一族でした。諏訪は霧が峰火山帯の一角にありますので派遣理由の一つだと思います。一説には
上社の諏訪氏を牽制する目的で下社を設置したと言われています。諏訪神社の説明文ではそのことは
触れていません。両社の神は仲直りしたとありますが、中世にあっては互いに分裂して抗争していました。
「波田町町史」筑摩郡の成立の項に次のように書かれています。
「大化の改新(645)以前、大和朝廷は地方の豪族を国造や県主に任命し地方の統治を行った。
信濃国の最初の国造は神八井耳命の孫にあたる建五百建命だという。・・・・
古事記によれば神八井耳命を祖とする同族のなかに阿蘇君・科野国造があり、阿蘇系図の中に
科野国造について神八井耳命の子・金弓君(欽明天皇の舎人)の子に目古君と麻背君がいて
この二人の系統が科野国造を担った。」とあります。
目古君は他田氏(多・太・大生などの氏族の祖)、麻背君は金刺氏の祖です。後に金刺氏は諏訪郡に
定着し諏訪社下社の大祝となっているとも書かれています。
筑摩の由来は束間で、天武朝の終わりに諏訪一帯に灰が降る記述がありますが束間の温湯として当時
全国的に有名で行幸の下調べまでしている。
諏訪社上社は神氏が大祝で後に諏訪氏となる。
大生と言えば秦氏が成敗したという大生部多と関係する一族なのか、神話もなかなかおもしろいです。
記紀の編纂には太氏が深く関わっています。
ヤマトタケル伝説の考案者の一角には太氏も入っていたのだろうか。
様々な豪族の広域分布は継体朝で学んだように確実に根を下ろしていったといえると思います。
[ MEMO 039 ]1999.9.6 秦野市の歴史
先に富士川における大生部多への弾圧の理由は秦氏一族への保護としましたが、富士川の東方に
秦野市があります。随分以前にネットの友人からその地名は聞いて知っていましたが今回調べて見ました。
秦野市のホームページにある歴史では次のように書かれていました。
「秦野の歴史は古く、先土器時代から人類の営みがあったようです。 盆地の開発も古墳時代の末期から
進められ、秦野の地名も、その中心となった「秦氏」が由来であると伝えられています。」
波多野城址という遺跡が残っていますが、そこには
「平安時代の中期に、相模守として下向した藤原氏が土着して武士となり、 ”波多野氏”を名乗りました。
それから200年、一族十四家で秦野盆地を守り、源・平・北条・足利氏と集合・離散しながら、
豪族としてこの地に君臨してきました。 ここは、その居館があったところで、その面積は、
一説によると15,000uといわれています。」と書かれています。
藤原氏と秦氏の姻戚関係はすでに述べたことですが、この”波多野氏”を名乗った一族は秦氏に濃い
一族であったと思われます。そしてここを拠点にしてさらに姻戚関係を広げ、昨年来目標としてきた
鎌倉と秦氏の因果関係の歴史的説明が一応できたことになるのではと考えます。
今年松本から甲府・富士五湖へのドライブ旅行で辿ったコースの中に、富士川沿いがありましたが
その途中にあった下部やその南に位置する南部は多分秦氏ゆかりの土地だろうと思います。
当初思い描いた素因は川の治水工事の技術からに過ぎませんでした。足利についても織物の地という
おおまかな素因があったに過ぎません。歴史を辿っていく中でこれほど多くのことが展開でき、一つずつ
解明されるとは正直予想すらできませんでした。
改めて日本の歴史における帰化人のパイオニア精神が寄与した偉大さに驚いています。
鎌倉で留まるわけではありません。福島・秋田・函館と北へと続くものです。それはまた、都留市で
知った松尾芭蕉の数多い句碑にも象徴されるように何故、芭蕉が奥の細道等の長旅をするに至ったのか
という歴史からみれば、ささやかな疑問にも答えうることでもあり、ともすれば、日本人は鎖国や島国で
パイオニア精神に劣る民族であるとする固定観念を打破しうることにもなろうかと考えます。
[ MEMO 038 ]1999.9.5 月読神社と松室一族
山城風土記逸文に「欽明天皇の頃、大雨と洪水が起こった。そこで占いでもって皇室に仕える
伊吉若日子に占わせたら、賀茂の神の祟りであるという。それで四月の吉日に、馬に鈴を懸け
乗り手は猪の頭を被って、競馬をしたところ、五穀は稔り天下は太平になったという。」
(日向の女良神楽などは、神楽の時に必ず猪の頭を飾る)とある。
伊吉若日子(伊吉は伊伎に同じ)の子孫は明治まで代々月読神社の宮司を務めた。その一族、
松室幸雄氏は葵祭に雅楽で奉仕する。「月読神と松室一族」の中に
「葵祭、これは・・・・ト部『伊吉若日子』が勅使となって五穀豊穣を祈り祭礼を行ったのが
はじまりといわれている。これは明かにト占の術を以って天皇の使いとして神に祈ったもので
この伊吉若日子は吾が一族の系図上に記録されている実在の人物である」と書かれている。
ー 以上は「京都遊行」より参照しました。ー
欽明天皇は継体天皇の後継天皇であります。六世紀中頃の事になります。
継体天皇の一族は蘇我氏から排斥されましたが秦氏や賀茂氏などは変わらず勢力を温存したことが
これで明かになりました。
もう一つ、711年に「衆を集めて騎射することを禁ず」などという詔が出ていると書かれていました。
全国から集まってきていたと思われています。
信州に馬が近畿からもたらされそこの牧で飼育された馬で一気に富士・群馬・関東へと大和政権の
支配圏が拡充されたことは推理しうるところです。松本の波田町周辺に牧が集中することや
日本海への川を下る便そして海運によって関東・信州などの物資が都へと運ばれたことでしょう。
[ MEMO 037 ]1999.9.4 信州の「小野」という名
moonさんのページで読みました『信州の「小野」という名』は、かなり展開しうるキーワードに
なりつつあります。その後の情報として「小野神社」が町田市にあって、ヤマトタケルの「小野神社」と
小野小町ゆかりという「小野神社」が向かい合わせであると聞き、「小野」という名についてYAHOO
とNTTで検索してみましたら、次の事が入手できました。
@ 打ち刃物を扱う商店が信州・兵庫・滋賀の志賀町にあること
A 町田市の小野神社は小野路にあって、小野路はその源の小野郷に名の由来があるらしいこと
B 福島県に小野小町生誕地伝承の温泉があること
これから述べることは、独り言と思って下さい。何ら根拠という定かなものはありません。
例のごとく地図で地名探索遊びをしてみました。まず諏訪から大月市、そこで桂川と葛野川有り。
大月から東に行くと相模湖そして小野郷・町田市。相模湖を南下しますと丹沢山地越えて
秦野市。その西に酒匂川(秦酒公がおり、松尾大社は酒神)。
下記にあります東国富士川における大生部多への弾圧の理由は当時すでに富士山一帯に一族ないしは
秦氏と関わる人々がすでに定住していたからではないかという推理と結びつけたくなります。
また大月市・相模湖には石器遺跡があって長野松本とも早くから交流があったと思います。
葛野川の源流には丹波山村があり、大月の南には都留市があって秦都理を連想、その南に西桂町があります。
(都留市と秦都理の関係は市の名の由来を知るかぎりでは無関係でした)
松本の波田町から桐生までの以東ルートを定めかねていましたが、どうやら大月ルートが正道の
ようですね。その線でいきます。今年は京都では初めて福知山が全国では桐生が優勝し、岡山も
大健闘、高校野球は鬼がらみの様相と私は見ていました。(余談・・)
しうちーの突飛な推理を一つ。ヤマトタケル伝説すなわちヤマトタケルのモデルは秦河勝と秦氏の過去の
長達ではないだろうか。熊襲は筑紫の磐井の乱そして蝦夷征伐は富士川の征伐というわけです。
[ MEMO 036 ]1999.8.31 ワニ氏と小野氏
「京都・北山を歩く」2(澤潔著)の中に小野郷・小野山のことが
詳しく述べられていました。
和邇氏は琵琶湖の湖西の南に今も地名として残る和邇浜から京都北山
にかけて拠点を置いていた豪族で和珥氏の一族と考えられている。
その和邇氏が後に小野氏と真野氏に分かれたという。
海人集団族としては安曇系と和邇系が近江では知られている。
小野古墳群は和邇川左岸丘陵地に密集しています。
小野一族の祖神は斧神といわれ製鉄と関わりがあること、木地師とも
つながるところでもあります。
小野氏の急速な没落の原因を賀茂社と秦氏に蚕食されたとしている点は
大いに注目するところです。(六世紀前後)
秦氏が後に製鉄技術に精通していった理由が継体天皇とのつながりとの
関連も併せて関心があります。
信州に小野という地名があると以前moonさんのページで読みましたが一度調べて
みる価値がありそうです。(波田町が秦氏と関連があったように・・・)
【 今までのことをつれづれに 】
各地に居住する海人族の人々にとって小町は誇り語りたい人物だった
に違いない。あるいは修験道系小野採鉱集団の人々が各地で地元民に
語り聞かせたに違いない。かような推理ができます。
小野一族はもと小野郷(八瀬・大原)に居住していたが次第に北山を
転々として西の奥京北町のはずれにある小野山に落ち着くことになった
。その理由を平安遷都に伴う新渡来系木地師の進出とする考えもあります。
以前古代メモで小野タカムラの野狂について触れましたが、彼の反骨
精神の背景がここにきて少し分かりかけてきました。
中央アジアや東ティモールなどにみられる民族紛争が絶えず再燃する
ことを考え合せます。
蚕食した側からみれば、蚕食された人々は「鬼」と映るのでしょうか。
「鬼」の調べは序についたばかりです。
「北山を歩く」を読み進めていますが、秦氏の年表に書いてある
秦河勝の東国富士川における大生部多への弾圧のことが掲げてありました。
その背景には大和政権主脳部における民間道教禁忌の傾向があるという
その真意は藤原不比等が策謀した「海人系の古い太陽信仰弾圧」
(火明命という神)によって新しい北方モンゴル系太陽信仰の定着であるという。
一方秦氏は稲荷信仰を守る為に訴えた。信仰の為もあるが各地に
散らばる一族の勢力安定の為であったろう。それは賀茂一族も同じであろう。
北山の奥深い地域にかような歴史の痕跡が地名なども含めて残っている
というのである。幕末の頃司馬氏も指摘していたが倒幕の志士を支援
した当地の地元民の気骨の背景にも伺えるのかもしれません。
三苗族を祖先としたのが海人族であったと今は考えています。
[ MEMO 035 ]1999.8.29 ある相関図
桓武天皇の平安京遷都に大きく関わった一族が京都には二つある。
先週の「京都遊行」において日吉大社の祭りに端を発して少し強引ながら相関図を試みました。
| 東北を拠点にする賀茂県主の一族 | 東南・西南を拠点にする秦氏一族 |
| 縄文祭りが残る日吉大社 | 松尾大社 |
| 縄文遺跡である北白川遺跡群 | 向日・久世遺跡群 |
| 渡来の農業神と放浪の土着神を持つ上賀茂神社・下鴨神社 | 乙訓郡の社及び長岡京向日神社に座す火雷神 |
| 鴨川と白川が交わる | 桂川と天神川が交わる |