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ー 記載事項リスト ー
[ MEMO 034 ]1999.8.15 火明神と海部氏
[ MEMO 033 ]1999.8.11 天照大神
[ MEMO 032 ]1999.7.29 五世紀という時代(ひとり雑談)
[ MEMO 031 ]1999.7.22 山城町・天竺堂遺跡(畿内最古級の横穴式石室)
[ MEMO 030 ]1999.7.22 大江山の鬼三者三様と間人皇后
[ MEMO 029 ]1999.6.17 信州松本平にある波田町
[ MEMO 028 ]1999.5.9 司馬氏の「街道をゆく」4を読んで
[ MEMO 027 ]1999.4.25 お市の方 1999.5.8 追記
[ MEMO 026 ]1999.4.22 改めて歴史について
[ MEMO 025 ]1999.4.20 松室氏と秦氏
[ MEMO 034 ]1999.8.15 火明神と海部氏
九州ー丹後・久美浜ー尾張この三点を結ぶものとして海部氏がいた。
久美浜を本貫地としていたという。久美浜に字名として海土
尾張に海部郡がある。九州ー久美浜は考えうるということですが
海部氏がもともと漁労民であることを考えると妥当な推理です。
久美浜には海部氏のもう一つの直系である中原氏がいて今も矢田神社
を守っておられる。矢田と名のつく矢田八幡神社もある。そこの
宮司の人の話として、海部氏は城崎の辺りからやってきたという
いわれがあるらしい。ー今日の京都遊行よりー
私は秦氏の調べで今まで丹後ー尾張の繋がりを継体天皇からとして
いました。息長氏を介してです。しかしそれとは別に元伊勢と絡んで
海部氏の存在が新に加わりました。
海部氏の祖先神は「火明神」です。宮津に天橋立がありますが、それは半島の先の部分のことで
根元部は久志備の浜と言います。そこに籠(この)神社があります。籠神社の主神は、
天照大神・豊受大神・天水分神で相殿として天火明神を祀ってあった。しかし今は、
天照国照彦火明神を主神として、相殿に天照大神・豊受大神・天水分神・海神を祀っている。
ここには、大江町で話に出た麻呂子王の話はないという。
梅原氏は籠神社が海部氏一族の総本社として古くから栄えていたという。
もうひとつ興味のある事は、浦島太郎が脇立ちしている冠島の老人嶋明神の神が先の「火明神」と
凡海連の祖先・目子朗女神といわれていることです。そして目子朗女神が「火明神」より古い
ということです。冠島は天に昇った神が残したもの、天橋立は神が寝ている間に倒れたもの
なんとも微笑ましい話です。
[ MEMO 033 ]1999.8.11 天照大神
天照大神は女神という。太陽であり皇室の祖先神であるという。
そこから、伊勢神宮ー元伊勢ー丹後の冠島ー老人嶋明神すなわち
縄文神とつながっていくらしい。
一説によれば、持統天皇が本格的に伊勢神宮を祖先神となし、
天照大神を最高神とする神道は推古天皇時代に始まり
元明・元正天皇時代に完成したという。さらにその時代
古事記・日本書紀が作られている。
女帝が注目される所以でもあります。江戸時代にあった庶民の
伊勢詣では数百万人規模に達したことがあるといいます。
稲作農耕と養蚕の国であったればこその現象だろう。
規模からすれば、現代はサマージャンボ宝くじ現象であろうか。
それとも高校野球であろうか。少なくとも自自公ではない。
先週今週の京都遊行からまとめて思い馳せました。
気になるコメントとしては藤社大明神が蚕の神でその神社の辺りに
「七夕伝承」「羽衣伝承」があるということでした。
さらに、木地師の里であるという。
[ MEMO 032 ]1999.7.29 五世紀という時代(ひとり雑談)
応神天皇朝の終焉期と言われる時代、四世紀が内外ともに中央集権という大きな時代の要請が
人々を動かしていたとすると、この時代は外殻が突貫工事にしろ出来上がった後に各地において
それぞれのリーダーが帰化人がもたらす最新技術と政治思想を彼らから不統一に学び各自の
展望を抱き野望というものを行動に現し始めた時代のように思います。
国家としての朝鮮半島への進出拡大野望の核は鉄の原石と進んだ文化・技術であることは
明らかであるけれど、中国にしろ朝鮮半島にしろこの五世紀は文化・技術の発展を期待する
時代ではなかったと思います。武力の向上に注がれていたのだと捉えています。それぞれに
均衡を保ちつつ武力の充実に奔走していた。小国に別れ牽制し合う時代と連合もしくは吸収
合体して拡大する時代が混じり合っていた。その中で日本だけが他国の侵略を免れていたのです。
本来なら文化・技術の後進国だから侵略されても仕方の無い状況ですが、他国の力が常に
分散離散しているものだから侵略を免れ、逆に思い通りに文化・技術を摂取できたのだと
考えます。国としてはそうです。しかしながら個別の事情を見た時にパイオニアという小集団
ながら帰化人達の日本定住は着実になされたと思います。日本を内部から陰ながら動かし
始めたのが五世紀だろうと考えます。皮肉にも応神朝を揺るがしたのは文化・技術と帰化人が
植え付けた不確かな政治思想であろうと推理します。
【 参考図ー五〜六世紀の大和の豪族配置図 】
この分布は岸俊男氏の説に基づいたものですが、図の中程が空白になっています。河川が
通る区域で田園地帯であるからですが河川の上流を支配するという意味ではこの配置で
いいのかもしれません。大和を中心に眺めれば理想通りといえます。
現在を考えてみた時に、京阪神地域等の広域図を調べてみるとこの大和なるエリアは
全域が掲載されることはまずないことに気付く。七世紀前後の目まぐるしい遷都状況は
その不自然な都の所在・中心勢力の拠点所在を物語るように思えます。
もう一つ言うなら、辺境における支配及び非連続な点支配において血縁・姻戚が駆使される
状況をなさしめた理由と考えられるのではないでしょうか。
継体天皇は広域的に判断していた人のように思います。最後になって大和入りしたのは
後継者を考慮してのことと察します。それにしても時代は人々を飲んでしまう。
[ MEMO 031 ]1999.7.22 山城町・天竺堂遺跡(畿内最古級の横穴式石室)
上狛天竺堂古墳で全長約27m、二段になった後円部の直径23mの前方後円墳です。
墳丘部から見下ろすと木津川の直角蛇行と270度の視界が展開している。
近くに高麗寺跡や椿井大塚山古墳もあって同じ丘陵地に所在する。
五世紀後半からの30〜50年間に二回埋葬がなされている。つまり雄略天皇から継体天皇
の時代です。棺の周りからは唯一鉄剣と鉄製のくら飾り一対が発見されただけで他は
髪飾りや首飾り用のガラス玉2400個、管玉12個、五獣形鏡一枚、腰飾り用ガラス玉
350個などが出土していて葬られていたのは女性と推理できるものである。
五世紀においては大和の豪族である和珥氏の勢力になるのではないかと考えます。
昨日発表された、山城町の横穴式石室は木津川が直角に右折する地域で奈良への入口の所です。
ここから淀川へ三角平野が広がります。西に隣接する枚方には天の川があり、北東には巨椋池
がありました。川の右折先は亀山を経て三重・伊勢に通ずる古道です。
川を利用した航路のいわば集積地といえます。七夕の頃に発掘していた人々は熱き想いだった
と思います。もし女王であることが確かになれば、それは邪馬台国の所在論争においても
充分な推理素因になります。
地図を見て思ったことがもう一つありまして、それは九州の大分・日田市から筑後川が筑後平野
に流れていく地形と似ていることでした。日田市もまた帰化人の拠点でもありました。何故
彼らが平野を形成する源流に拠点を置くのか、私はいつも関心を抱いています。
理由としては、河川の治水工事の技術に習熟していることと、中国における歴史が彼らの
生活の智恵として定着していたからだと思っています。土着の民は傾向としては川を怖れていた
ものと推理しています。穏やかな湖畔ゆ池の辺や海沿いの地域や洪水の心配の無い平野部を
好んでいたと思います。奈良に固執した理由だろうと推理してます。
筑後川の源流である大分の日田市付近には鬼の伝説があります。
[ MEMO 030 ]1999.7.4 大江山の鬼三者三様
丹後における三鬼退治について、日本書紀は何故か全く沈黙している。
初めの鬼退治は古墳時代早期で陸耳御笠と呼ばれる鬼。
次は麻呂子王(用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟)が退治した三匹の鬼。
後は酒天童子で源頼光が四天王とともに討伐したという鬼。
麻呂子王は聖徳太子の母である間人皇后と一時だが深い関係になったという。彼が征伐した
鬼のうち一匹は間人の岩窟に封じられたそうで何故かは定かでない。そこからか
今日でも間人では鬼祭が残っている。
間人皇后の異母兄穴穂部皇子も麻呂子王を助け鬼退治をしているという。そしてまた間人皇后とも
許されない愛の関係があり、それが原因で皇后の座から追われたともいわれている。
このように様々な伝説が丹後各地にあります。
穴穂部皇子は皇位継承の有力候補であったが、何かと粗暴な振る舞いが多く支持者を失い
用明天皇が亡くなった時に疎まれて殺された皇子です。
間人に逃げた穴穂部皇子は鬼として退治されたとも考えられる。時の権力者から疎まれた者は
鬼とされたのだろうか。あるいは公に供養できない為に鬼祭として奉られ続けたのだろうか。
[ MEMO 029 ]1999.6.17 信州松本平にある波田町
「波田町誌」を手に入れた理由は波田の地名由来が知りたいこともありましたが、秦氏一族の
僻村における今日的な影響を知る為でもありました。常識的には無形のものではありますし、
1400年も経ている上では微塵にも残るものでないことは承知すべきではあります。
まして古文書のない時代故に由来の真偽もつかないことも承知でしたが、これは過去の歴史が
いかに人々の生活の中にその影響を及ぼすかを見届けることでありました。
皆無と予想される中で得られたものは次の点です。
・ 大野牧という官地があったこと。信濃に二つの牧監が置かれ、甲斐・上野に一つ置かれていた。
諸国の牧は兵部省に属している。
・ 室町期に地名が登場すること。
・ 安曇一族に八太造という氏族があり、秦氏居住説がある。
・ 大和から秦氏の同族巨勢氏が移住したとする説もある。
・ 大井郷というのがあって大井という堰を設けた古墳文化を持った有力氏族がいた。
八世紀頃定住していたこと。安塚古墳はその頃のものという。
・ 貞観寺は藤原良房が空海の法弟と謀って建立したもので、後に仁和寺別院となる。
発掘遺跡から見る限り八世紀になってから本格的な当地への移住がなされたと考えられる。
私が琵琶湖の湖東から群馬すなわち足利ゆかりの地への結束点として松本を置いたのは糸魚川
河口からの海上ルートがあった為で、そこに波田町が偶然に見出せたということです。
そして今回推理が確かさを増したのです。
このことは、私にとっては大変重要なことでした。
平将門の乱そして木曽義仲の京上洛、足利尊氏さらには武田信玄、織田信長、明智光秀、長曽我部氏
を雄ならしめた背景の一つに共通した歴史観が少し見えてきたからです。それは必ずしも
一人の武将の才覚だけではなくて彼等を取り巻く人々にも備わっていた歴史観なのです。
[ MEMO 028 ]1999.5.9 司馬氏の「街道をゆく」4を読んで
「街道をゆく」4は「郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか」と題されている。
この本の最後の方に継体天皇の事を書いた部分があり昨日読んだ。大体同じような内容であった。
その後に柴田勝家についても少し触れていた。歴史を教養の一部として捉えただけであれば
なるほどそういうことがあったのだと記憶の整理棚に収められていくのでしょうね。
ところが私のように遠回りというか彼と全く異なる視点から辿り着いたような場合では
少し違う感慨があるのです。何か自信のようなものが芽生えるのです。そして彼の判断に対して
対等に向き合うことができるのです。
このことは、とても大事なことです。客観的に他人の意見を聞き入れる方法といえます。
自分の専門分野であるとか、自分の熟知し興味深く思考したことについての他者の見解に
触れた時、そのことを理解できます。また新たな展開の糸口も発見することにもなる。
で新たな発見について少し述べたいと思います。
一つは紫式部のことです。父は家格の低い藤原氏で名を為時という。
以前に小野たかむらと並んで墓があると書いていましたが、藤原繋がりと思われる。
紫式部は父の赴任先である越前府中つまり武生市に三年近く娘時代最後の期間を過ごして
いるのです。武生での紫式部は憂鬱な日々があったらしいと書いてありました。
初婚の相手は藤原宣孝です。
府中城は前田利家の城で秀吉と柴田勝家が争った時共にこの城で湯漬を馳走されているそうな。
もう一つ余談ですがその近くの大良には水仙が自生する里があるとも書かれていました。
継体については大和勢力から見た継体大王の位置付けで述べてありました。彼を天皇に
推挙したのが大連である大伴金村と物部あら鹿火そして大臣の許勢男人で越の国が擁する
装丁を動員する目論見があったと書いている。
[ MEMO 027 ]1999.4.25 お市の方 1999.5.8 追記
歴史物語で虎姫町のことを扱いましたが、偶然に京都新聞日曜版特集として連載している
「おんなの史跡を歩く」で今日、「お市の方」がありました。虎姫町は小谷城と姉川古戦場に
挟まれた所です。彼女は戦国の世に数奇の運命を歩んだ女性です。小谷城の落城後に福井でも
一年経たないうちに夫勝家とともに自刃して果てる。その子二人は豊臣・徳川家の夫人となる。
これを運命のいたずらというのでしょうか。私も驚いています。
1999.5.8 追記
お市の兄は織田信長ですが、織田一族について越前織田町のHPより下記に参考資料を
転載させていただきました。
柴田を今調べていただいてますが、敦賀の西に小浜があります。そこに芝田姓を名乗る人を
知っていますが、守護斯波(しば)氏と関連があるのでしょうか。実は偶然なことにその方と
私は懇意にさせていただいてますが数年前織田姓の人と結婚したのです。
理由は知りませんが驚きですね。今度聞いておきます。
戦国時代を治めた織田信長、私には継体天皇が大和を治めることになったことと奇しき
因果を覚えるのです。兄妹揃って国の命運に関わるところに驚くのです。
[越前織田町のHPより]
織田(おた)町は、織田信長一族の祖先のふるさとです。
織田氏の祖は越前織田の荘の荘官として、また、越前二の宮劒神社の神官として代々仕えてきた
由緒ある家柄です。室町時代の応永年間に、神官の子に「常昌(つねまさ)」という立派な人物が
いましたが、時の越前の守護斯波(しば)氏にその才能を見いだされ、家臣として取り立てられ、
尾張の国に派遣されました。
(追記: 織田氏は元来斎部といわれ、常昌以後清洲流と岩倉流とに分れた。清洲織田の家老
織田信秀は智略にとみ、斯波・両織田を凌いで隣国に聞えた。ー「日本史辞典」よりー)
苗字は故郷の名を取って「織田氏」を名のるようになりました。
織田氏は次第に尾張で勢力を伸ばし、守護代にまで登りました。信長のときには尾張一円を掌握し、
さらに日本全国に雄飛するまでに至ったことは周知のとおりです。
信長は戦国の乱世にあっても、劒神社を氏神として深く尊崇し、武運を祈るとともに、
多くの神領を寄進し、社殿を造立するなど、劒神社の保護と住民の治安に尽くしています。
天正十年、信長は本能寺の変であえない生涯を終え、天下統一の夢は消えましたが、
織田の人々は信長の功績と遺徳を偲び、劒神社境内の中に小社(小松建勲神社)を建立し、
御魂を祀りました。
素戔鳴尊(すさのおのみこと)
素戔鳴尊は、高天原から出雲の国へ来られて、悪ものを退治されたが、越の国には大蛇(おろち)
が出て大変住民を苦しめていたことを聞かされた。そこで尊は船に乗り海の流れに沿って、
越の国四ヶ浦に上陸され、越知山に住む大蛇を退治することになった。
越知山にいる大蛇とは、八つの頭と八つの尾があり、その尾は越知山のふもとにたれ、
その背には松が生えており、八つの頭は水を求めて海の方に向いて横たわっていたという。
大蛇は時々織田の里におりてきては、里のものを食い荒らし、あとには人までも食べたという。
尊はまず里人にたくさんの酒をつくらせ、それを瓶に入れて越知山の西の方の谷々においたところ、
大蛇は酒のにおいを求めて八つの頭をのばしながら、谷々のかめの中の酒を飲み始めたが、
体が大きくてなかなか酔わなかった。
里人は尊のいわれるまま、どんどん強い酒をつくってかめの中へ入れておいたら、
さしもの大蛇も三日三晩飲み続けたので、すっかり酔いつぶれて、八つの頭を谷に横たえて
寝込んでしまった。このとき尊は得意の劔で、一つずつ大蛇の首をはねていった。
大蛇の血は川のように流れて海にそそいだという。
この時大蛇の尾から出た劔を、天照大神(あまてらすおおみかみ)に捧げたが、後の世に
伊部の臣がこれをいただき、素戔鳴尊のたましいとして座が嶽(くらがだけ)にまつったという。
いま、越知山の西の方に、血が平、玉川、八俣という地名があり、織田には入尾、笈松という
地名があるが、これらは大蛇退治に関係がある名がつけられたのだとも言い伝えられている。
尊のはたらきで、里人はまた平和に暮らすことができたので、織田の里で一番美しい娘を、
尊のおきさきとしたといわれている。
忍熊皇子(おしくまのみこ)
忍熊皇子は仲哀天皇の第二皇子(おうじ)で、逢坂山の戦に近江の瀬田で水没されたと言うが、
実はひそかに逃れて角鹿(つのが・今の敦賀)に来られた。ここから船で越前の海を渡られたが、
風が激しく波が高くて大いに困っておられた。するとこの時、沖から帰る善船というたくましい船頭が、
皇子らを自分の漁船におうつし申し、難なく宇見浦(今の梅浦)に上陸することができた。
しかし家は悪賊に破られて泊まるところもないので、その頃浦役をしていた善帆家をお宿として
休まれたという。この両家は今も劔神社のおわたりの時には御輿の先導をつとめるならわしになっている。
この頃北の国には、悪賊がはびこっていて、良民がすこぶる苦しんでいると聞き、皇子は深く
これをあわれみ、先ずこの賊を征伐しようと、固く心に決めて若者を集めた。そして玉川の
「たての岩戸」にすむ賊を攻めたので、賊は不意をうたれて山奥へ逃げたから、これを血が
平の谷間に追い、激しい合戦をして多くの賊を平らげた。それでもまだ生き残った賊どもを
六所山や茗荷・笈松に攻めたが、山になれた賊はさるのようにあちこちに逃げまわって、
なかなか討ちとることができず、皇子はこの苦戦につかれて、とある大木の朽穴に隠れて
しばらく休まれると、ついうとうとと眠られた。すると夢に
「今汝に一ふりの劔を授けよう。この劔を持って賊を討てばたちまち平らぐであろう。
われは素戔鳴尊である。」
とのお告げがあった。夢から覚めて辺りをみまわしていると、伊部臣が来て、
「今、波岐の大木の下で、素戔鳴尊の劔をいただいたから、これで賊を討ってください。」
と劔を皇子に捧げ、座が岳の山道を案内して皇子の軍を助けたので、ついに賊の頭を降参させる
ことができた。その賊の残りもこれを烏が岳に攻めて全滅させた。
こうして村々も安定してきたので、更に山野を開いて畑として、池や水路を作って水田を開き、
農業や蚕業をすすめられた。やがてこの事が都に知れ、皇太子(誉田別(ほんだわの)尊)や
竹内大臣を使として、皇子を都へお戻りくださるようにと、お迎えがあったが、
「今は伊部臣の娘を后とし、劔彦という子供も一人あることだから、都へ帰ることはできない。」
と永く織田にとどまることとなった。
こうして村は開拓もすすみ、人の心も安らかになったので、皇子は座が岳から劔大神を織田の
今の地にうつされ、皇子自らもこの地でいろいろ村人のために力を尽くされた。しかし若くして
病死されたので、人々は父母を失ったようになげき悲しみ、忍熊皇子こそ素戔鳴尊の生まれかわり
と敬い、この二柱の神を一座の大神として祀ることとなった。
忍熊皇子と善船善帆(ぜんぶねぜんぼ)
忍熊皇子が、都で戦に敗れてのがれるとき、二羽のきじに案内されて山道を進まれたという
故事により、劔神社の御輿の飾りにきじが飾られているという。また、皇子が海をのがれるとき、
大しけにあってこまっていられると、善船という若い漁師が近づいて皇子を助け、宇見浦(梅浦)
に着き、そのころ浦役をしていた善帆家に泊まられたそうである。このいわれで今でも劔神社の
おわたり(神幸祭)には、この両家が御輿の先導をつとめることになっている。
皇子はこの苦しかった旅の疲れをいやし、その憂さ晴らしに善船青年と、たびたび上戸に行って
天王川であゆつりをされたという。
劔神社の祭のお供えとして、善船家にはあゆを九匹、善帆家からは鯛を献上することになって
いたが、祭のころはあゆがとれないので、神のお心をうかがい、善船家はあわびとさざえをお供え
することに改まったそうである。
妙向尼(みようこうに)(1524年〜1596年)ー「森家の歴史」ページよりー
森可成の室。可成の家臣・林新右衛門通安女。長可、蘭丸長定らの生母。『妙向尼画像』によると
妙向尼は勝蔵長可、蘭丸長定、竹丸(履歴不詳)の母であると言う。
父の通安は北陸出身と言われ、一向宗の信者であったとされる。
妙向尼も父に感化されて熱心な一向宗の信者となる。
故に、天正2年からの信長による石山本願寺攻めには心を痛め、蘭丸長定を通じて再三、信長に
和睦を箴言。信長も妙向尼、蘭丸長定母子の進言を容れて、天正8年3月17日、正親町天皇の勅命
というかたちで本願寺と和睦。同時代では養徳院(信長乳母)とともに、織田家臣団の中でも屈指の
政治力を有する女性であったと言えよう。しかし、私生活の面では夫や子に次々と先立たれ、
後半生は供養に明け暮れる日々を送った。慶長元年8月2日没。行年73歳。金山・常照寺の父の墓
の傍らに葬られた。没後50年に当たる正保2年には京都・西本願寺で、100年に当たる元禄8年
には西本願寺と津山・妙願寺で、それぞれ妙向尼の功績を称え盛大な追善法要が挙行された。常照寺、
妙願寺には妙向尼の画像が現存する。
[ MEMO 026 ]1999.4.22 改めて歴史について
小学校の延長線上に中学二年で受けた歴史授業があったように記憶しています。歴史年表の
項目だけを教えられたと記憶してます。定年前の先生で歴史というものではなく、クイズ
方式になさった。「大化の改新を成就したのは誰と誰か?」生徒は挙手して早く手を挙げたら
成績ポイントをいただく。いわゆる記憶するだけ。歴史への関心や面白さは高校に行ってから。
高校の教師の方は、優れた人でした。京大の大学院を出て高校教師になられた人で、その授業は
黒板一杯に言葉と線が埋められた。一目瞭然。それぞれの史実が繋がりを持って描き出されている
ものでした。先生曰く、「これは私の歴史解釈に基づいて展開したものです。皆さんにも各々
このように展開してほしいのです。」試験は、教科書・参考書持ち込み可。論文形式で
問題は試験官が黒板に一行書くだけでした。つまりテーマに対して持論を展開するのです。
予めテーマは三つほど知らされていました。試験用紙はざら紙一枚。一度先生から教えられた
通りの展開をしたら、70点でした。「あなたの意見は」と返してもらった答案用紙には書かれて
ありました。歴史が好きになった理由でもあります。
それが後に渦中に入ることになった時(70年安保闘争の渦)、自分なりの見解を持って対処
できたと今にして思います。様々な歴史解釈が可能であることが分かっていたからです。
鵜呑みに信じてしまう誤りはなかったと思います。先生が学生運動を考慮してそのような
教育をされたかどうか、私はされたと思っています。
さて、今までの継体天皇を含めた古代メモに関してもそれぞれのメモで視点や展開が他にも
可能です。例えば継体天皇のカリスマ性をもっと高めると変化し、周囲の豪族の影響を高めて
展開していくと変化していきます。また鉄の生産にもっと着目すると変ってきます。
だからより歴史への関心を深めたい方は多くの著作を読まれたらいいと思います。私も読んで
います。ただこのページにそれらを盛り込みますと混乱する人も出ますので一つの道を辿る
ように心掛けております。
[ MEMO 025 ]1999.4.20 松室氏と秦氏
松室氏は秦氏の分かれと聞きます。秦酒公が松尾大社を創建したことはご存知でしょう。
松尾大社の南を山沿いに行くこと300m位、松尾月読神社がひっそりと佇んでいる。
訪ねる人も少ない。この道は苔寺や華厳寺(鈴虫寺)へ通ずる山辺の道であります。
松尾月読神社一帯が松室と呼ばれる地域です。松尾大社と同様歴史は古く創建されて
1300年が経つ。松尾大社の摂社です。
さて、その近くに継体ゆかりの名を持つ家が古くからあって子供の頃よく遊びに行きました。
この調査で初めて気がついたわけです。
松尾大社の文献は百科事典の大きさで数十冊に及びます。それを調べればもっと詳しく
秦氏のことが分かるのですがそれはまだ先のこととして置いておきます。
少し余談になりますが、「継体大王と福井」を読んでいくうちに当時のことがあまりに
他の歴史に比して研究されていないことに気づきました。それは室町時代の研究がそう
であったことと関連があるのでしょうか。宮内庁が頑なに古墳の公開もさることながら
大学等の研究に門戸を開かない理由とも一致するように思い始めました。
公表されないけれども学界ではかなりのことが研究され資料として山積みされたままで
あると思います。チューリップの木ではありませんが分からないうちが花なのかとも
考えます。今書き始めた歴史物語も推理部分の楽しみと一方で時の無駄を課している
のではという思いでこのメモを先行させている次第です。
謎解きに終らないよういつも心掛けたいと考えます。その積もりで読んでほしいと思います。
ー 続く ー