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ー 記載事項リスト ー
[ MEMO 009 ]1999.1.31 秦河勝と長宗我部氏ー燕翁さんからの情報
[ MEMO 010 ]1999.2.3 秦河勝の土佐国赴任の背景
[ MEMO 011 ]1999.2.4〜 鳥浜遺跡から縄文時代を知る
ー鳥浜遺跡に関する収集資料より(teruteruさん提供)
[ MEMO 012 ]1999.2.7 秦河勝と長宗我部氏ー柴田さんからの情報
[ MEMO 013 ]1999.2.20 秦氏関連の情報ー藤原さん・HARUKOさん・梅原さんによる記事より
[ MEMO 014 ]1999.3.16 継体天皇についてー「継体大王と越の国」(福井新聞社刊行)より
[ MEMO 015 ]1999.3.26 岡山県総社市紀行ー真夜中の訪問
[ MEMO 009 ]1999.1.31 秦河勝と長宗我部氏ー燕翁さんからの情報
( 燕翁さん )
以前読んだ、徳永真一郎氏の小説「長宗我部元親」には、元親の縁談があった時、その相手に
長宗我部氏のことを「秦始皇帝12世の孫、功満王の末裔、秦河勝が始祖でその後裔能俊が
鎌倉時代に長岡郡宗我部郷に住んで宗我部と名乗った。更に香美郡に香宗我部氏というのがあり、
これと区別するため長宗我部とした」と説明しています。さらに、元親が滅ぼした安芸氏は
壬申の乱後、土佐に流された「蘇我赤兄の子孫」といわれている、としていました。
もっとも、これは小説のことであり、著者もこれを信じているということではないようです。
いずれにしても、土佐は鎌倉以降、河野氏、佐々木氏、北条氏、細川氏等の支配していた所
であり、長宗我部氏は土着の国人であったのでしょうか。秦氏の子孫という説の信頼性に
ついてはよくわかりません。また、教えてください。
( 氏内 )
秦始皇帝・・については秦氏本系帳ですから疑問です。中国大陸から朝鮮半島へ逃れてきた
のは信じられることですが新羅から来朝したとされています。宗我部の由来は知りませんでした。
蘇我赤兄の子孫でしたかいやよくよく因縁があるのですね。四国は当時島流しの地なんですね。
とすれば河勝も流されたんですね。その背景は調べないと。貴重な情報をありがとうございます。
平安遷都以降朝廷からうとまれた氏族であることは逆に証明されたと思います。つまり帰化人で
あるからです。それが今日まで引き摺っている。帰化人の雄は秦氏ですからそして河勝が
最盛期の人物ですから子孫としたと考えられます。考え得る想像は司馬さん曰く、許される
ことですから私もその線で進めたいと思います。
[ MEMO 010 ]1999.2.3 秦河勝の土佐国赴任の背景
644 年秦河勝の征伐: 大生部多が常世神と称して民を惑わすを悪み、これを打つ。
翌年「大化の改新」と年表にあるように、この時は京都に居住していたと考えられる。
東国での征伐の話である。秦河勝がこれに関与したのは恐らく一族の者からの要請が
あったと思われる。一族の中部・関東への進出盛んな頃である。
601年に広隆寺建立していることからすでに高齢であることは察せられる。その上
の任地背景としては、一つに651年頃からの新羅との関係険悪化が原因と考えられる。
それは百済と新羅の紛争が起因している。以後新羅との険悪関係は9世紀まで記載されている。
秦氏は新羅出身でありしかも使節導者でもあった。「大化の改新」以後は蝦夷討伐に
国内では動いていく。討伐には膨大な軍費が必要となる。秦氏の資金量は最盛であった。
そういう背景が土佐国任地ではないだろうか。さらに言えば、唐が
高句麗・百済へ侵略を開始し始めている情勢が当時にあって、北九州の水城や城の築城に
伺えるように西国の守りの理由も考えられる。吉備では独自に鬼ノ城を築いている。
(白村江の大敗は663年のことである。)
勢力の極端な略奪をされたことは明らかである。
なお640年に天皇が伊予の温湯宮に療養として半年滞在していることを考えると、
いわゆる島流しのような左遷ではなかっただろう。9世紀末の菅原道真が重なる。
[ MEMO 011 ]1999.2.4〜 鳥浜遺跡から縄文時代を知る
ー鳥浜遺跡に関する収集資料より(teruteruさん提供)ー
鳥浜遺跡を遺した縄文人が、京都の北白川遺跡を遺した縄文人の祖先ではないかという大胆な
仮説を立てていました。
資料を読んでみて仮説の裏付けが得られました。一つは5000年前に鳥浜遺跡を遺した
人々が洪水か何かの理由で移動したとありました。定住地を変えたのです。南に移動したと
いいます。一部は越前や舞鶴方面に移動したでしょうが主体は三方湖の環境に相応した場所
ということになります。森と湖と川といえば琵琶湖です。三方湖から南に10km行くと
上中町がありそこから山越えに琵琶湖の北西岸・今津町まで辿れ、その街道は後の鯖街道
つまり若狭街道です。古代の重要な古道でした。上中から今津までの直線距離は15km
です。ここで私独自の分析をまずしておきます。
今津は湖岸より有名な竹生島が見える町です。そこから上中までの15kmは二の谷山
608mと武奈ヶ岳865mの間の峠を越えて行きます。上中からは鳥羽川を5km下り
「はす川」に移りさらに5km行くと三方湖に辿れます。以前舞鶴の五老ヶ岳から愛宕山
を眺めたという直感的視点からなのですが、三方地域で言いますと三十三間山842mが
縄文人の親しむ山だろうと考えます。その横の三重岳は974mあって愛宕山より高い。
天候さえ良ければ見えるはずで無論琵琶湖も見えます。ちなみに上中より小浜−京都間の
古道はすぐ近くですから京都への進出ルートとして充分考えられます。太陽の昇る方向と
いう捉え方です。これが資料を読む前の唯一の裏付けでした。
さて、次にその具体的裏付けとなることを資料より挙げてみたいと思います。
まず使用した資料は次の二点です。
(1) 三方町郷土資料館発行の『鳥浜貝塚は語る』
(2) 『福井県史』「第一章−原始時代の社会と文化」[第一節−ふるさとのあけぼの]
縄文時代区分
草創期 12000〜10000年前 早期 10000〜6500年前 前期 6500〜5000年前
中期 5000〜4000年前 後期 4000〜3000年前 晩期 3000〜2300年前
草創期12000〜10000年前
縄文時代が今から12000年前に開始され2200〜2300年前までと測定されるのは、放射性炭素に
よる年代測定の結果によっている。それによると福井県においてのこの時期と考えられる
最古の遺跡は「鳥浜遺跡」と「永平寺町にある鳴鹿山鹿遺跡」が特に注目されている。
隆起線文土器が発掘されていてこの土器は居住期間が短い時代のものと考えられています。
当時の福井は現在の青森位の気温でブナの木が繁茂していたらしい。
鳥浜遺跡を遺した縄文人がの日本における縄文人のルーツと考えられるわけです。
早期10000〜6500年前
9300年前に韓国のウルルン島から飛来した火山灰が近畿地方中心に検出されていいて
この灰の層を挟んで出土している。この灰は三方火山灰と命名されている。
この時期の土器は多縄文系土器と押型文土器で前者の方が古く、三方湖畔に本格的な
定住生活の始まりを示すものとされている。9000年前の集落跡や竪穴住居跡も発見され
川に拠点を置いていたと考えられている。
前期6500〜5000年前
押型文土器は西日本一帯に広く分布しているが、この時期になると北白川下層式を主に
瀬戸内系・東海系・中部関東系などの土器が発掘されている。
中期5000〜4000年前
全国の遺跡分布状況などの分析からこの時期の人口が推定されているが、全国で26万
その内福井では7万2千人いたであろうとされている。ちなみに奈良時代の全国人口は
戸籍帳などの資料より推定して600万人とされている。
これが発掘物の年代測定からの裏付けです。北白川下層式を主に使用していたことは
他に比して交流が盛んであったことを示している。つまり定期的に物流がなされるルート
が確立していたと思われます。つまり道とか航路があったと考えられます。
交流・交易の裏付けとして土器の他に石器材があります。
石の産地割り出しは科学的な分析により明らかにされています。例えば黒曜石では
蛍光X線分析という方法が有効とされ鳥浜の黒曜石は島根県隠岐島産と長野霧ケ峰産と
判明されています。同様に他の石もそれぞれの分析が加えられて、サヌカイト(讃岐石)
は大量に出土していますが香川県金山産と奈良二上山産。輝石安山岩は能登半島産と
それぞれ判明しています。縄文時代早期は石器時代と普通考えられているのですが
鳥浜遺跡を出土品などから考えた場合木の文化といった方が適切と思われます。
木の文化そして海・森からの産物が原石や石器との交易物であったと考えられます。
木の文化といえば舟があります。鳥浜遺跡から二隻、近くのユリ遺跡から四隻丸木舟
が発見され昨年は10人ほど乗れる5000年前と思われる海洋用の舟が舞鶴で見つかった。
造船技術の進歩が伺え交流・交易の盛んなことが明らかになったのではないだろうか。
琵琶湖を行き交う大量に荷物を積んだ舟が思い描かれます。
昨年も琵琶湖湖岸に面した地域の集落が幾つか出土されて証明されています。
以上のことから以前に仮説を立てていた北白川遺跡群を遺した縄文人の祖先が
鳥浜からである可能性は大層高くなりました。
なお、鳥浜遺跡のことや鳥浜遺跡から出土または発掘品分析の詳しいページは別途設けます。
[ MEMO 012 ]1999.2.7 秦河勝と長宗我部氏ー柴田さんからの情報
長宗我部氏がほんとうに秦氏の末裔かどうかはわかりませんが、高知県の南国市下田三所権現の
棟札には、「大檀主秦国親同親□」とあり、高知県長岡郡大豊町の豊楽寺棟札には
「豊楽寺御堂檀那長宗我部秦元親」とあるようで、長宗我部氏が秦氏の末裔と自認していたのは
間違いなさそうです。実際に長宗我部氏が歴史に現れるのは後醍醐天皇の時代、
元弘三(1333)年で、長宗我部信能は香宗我部秀頼とともに長岡郡の乱暴を鎮めるよう
足利尊氏に命じられています。その後は細川氏の家臣になったようです。
[ MEMO 013 ]1999.2.20 秦氏関連の情報ー藤原さん・HARUKOさん・梅原さんによる記事より
紀元前三世紀頃、秦の始皇帝に仕えた斉の仙術士、徐福、字は君房で徐市(じょふつ)とも呼ばれ、
「史記」秦始皇帝本紀、「漢書」郊祀志などによれば、
確かにハッタリ言いましたが亡命とまでは行かず、なにせ大和朝廷が出来たのが
紀元前一世紀の頃、200年以上の開きが有ります。所で、徐福は始皇帝の命を受け、仰山の童男、
童女を引き連れて、東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛州(えい
しゅう))に不老不死の仙薬を求めて船出しました。後世、徐福なる者が紀州の
熊野や、駿河の富士山に来て永住した事が中国、日本の典籍に書かれ、たとえば十世紀の後周の頃
に書かれた釈義楚の「義楚六帖(ぎそろくじょう)」に、彼が
富士山の聳える地に漂着し、その子孫が秦氏であると述べ、この説は「本朝神社
孝」巻四、「本朝怪談故事」巻二にも述べられています。また、民間伝承として紀州熊野の辺りに
小祠、塚が緒所に残り、和歌山県新宮市の南に室町時代に造ら
れた徐福の墓と、7人の侍臣を埋葬した「七塚」が在り、新宮市阿須賀町の阿須
賀神社は徐福の漂着地で社殿の背後の山を蓬莱山(ほうらいさん)としています。また、三重県
熊野市の浦辺に秦住村(はだすむら)なる集落が在り、更に那智で
作られる紙は、上古より徐福紙と呼ばれ、徐福がその製法をもたらしたとされて
います。なお、断って置きますが、徐福の漂着地は熊野や駿河だけでなく、他に京都府下丹後半島
伊根町新井崎の新井崎神社の辺りの特産「にいよもぎ」こそが
徐福の探し求めた霊草と言う伝承が有り、これとよく似た口碑は南九州辺りにも
見られ、時代錯誤も甚だしいが、第8代孝元天皇の頃渡来した徐福が王冠を埋めたのが
「三国名勝図会」の鹿児島県串木野の「冠嶽」、また、徐福が船を繋いだ
宮崎県延岡市の「徐福岩」、そして、薬草を採取したのが同地の「蓬莱山」など
第二次遣唐大使の小野妹子と共に留学生として海を渡った弁正が秦氏の出で、そして、
後に秦氏の本拠地、葛野郡の東部に位置した沼沢池辺りに、秦氏の財力を傾け建設援助して
出来たのが平安京と言われ、そしてまた、883年(元慶7年)秦氏は惟宗朝臣(これむねあそん)
に改姓され、律令制を研究する明法家を多く輩出していますけども、平安遷都後に中央政界で
活躍した人物は出ていない様で、国司、郡司、下級役人にその名が見える程度ですが、
秦氏の子孫は近畿地方一帯に広がり、根付いている様です。
(藤原さんより)
徐福が始皇帝にたいして言った”はったり”は、同じ「史記」の中の列伝の部分にあります。
本紀では、徐市として出ていたものが、こちらにははっきりと徐福という名で登場します。徐福は
、皇帝に対して、次のように言ったとあります。
「東の海で会った大神さまに、何を探しているか訊かれたので、延命長寿の仙薬を探していると
答えました。すると大神さまは、私を蓬莱山に連れていき、
霊芝に囲まれた宮殿を見せられました。どれだけのものを献上したら、その仙薬を手に入れること
ができるのか、尋ねると、たくさんの童男、童女といろんな機械や道具類を所望
されました。」徐福の言うはったりにまんまと乗せられた始皇帝は、徐福に命令を出して、
旅立たせます。そして、同じ列伝の中に、その後の徐福についての記述があります。
「皇帝は、童男、童女3千人と、五穀の種子とたくさんの機械類、道具類を船に積み込んで
徐福を旅立たせました。徐福は広い平野と沼のある島にたどりついて、そこに住みつき、自分が
王になって、秦の国にはもどりませんでした。」
で、「広い平野と沼のある島」というのが実は日本のことで、日本に弥生文化をもたらしたのは、
徐福の一行だったとも考えられるわけです。
熊野地方にはこの徐福の墓といわれるものがあります。藤原様のいわれるように、和歌山県新宮市
(下の書き込み)と、三重県熊野市にあります。
熊野市波田須(はだす)町にある徐福神社では徐福が伝えたとされる須恵器が社宝として残っており、
焼き物の神様として祭られています。
(HARUKOさんより)
小野たかむらと「江談抄」と題して梅原猛氏が京都遊行の中で述べている中に「秦氏は惟喬親王
の重臣の末裔」とある。この秦氏は寛政時代に「小野相公墳」という石標を建てたという。
それの北側の墓域に小野たかむらの墓があり、西には紫式部の墓がある。
小野氏を大江匡房という院政期の学者は「狂気を内に蔵している詩人」と評している。
小野氏はまた鬼人と繋がりがあるともいわれている。
惟喬親王は9世紀後半の人である。文徳天皇の第一王子。
小野道風(894〜966)という書聖がいます。その筆は野蹟といわれ、小野タカムラのひ孫にあたる。
小野タカムラは野狂といわれ、いずれも野人の性格を付けられた。道風をまつる道風神社が志賀町小野
と京都市北区杉坂道風町にある。彼は木工頭から内蔵頭に任ぜられた。北山杉の生産の中心地が
小野十郷である。記録によれば平安の初めより杉の伐採監督を代々している。小野タカムラと
地蔵菩薩との縁の深さは梅原氏が書いている。若狭街道への入口に桃源山地蔵院がありその近くに
道風神社がセットとされていたという。木工品材のルーツということで注目しています。
地蔵菩薩は惟喬親王の念持仏でもある。
[ MEMO 014 ]1999.3.18 継体天皇についてー「継体大王と越の国」(福井新聞社刊行)より
継体大王は「オホド王」と呼ばれ、父は近江息長出身で名を彦主人王といい、母は北陸三国の
坂中井にいた振媛という名前で郷里は越前の高向(たかむく)。誕生したのは湖西にある三尾といわれ
間もなく父親が亡くなり高向に移りそこで育ったとされている。
青年になった頃に大和では王が亡くなり後継者を探したらしく、第一候補は京都亀岡にいた
倭彦王だったが使者を攻撃に来たと間違い山中に逃れたという。第二候補以降であったという。
なかなか承諾せず川内の馬飼集団の長官にあたる人物なる使者が来て漸く承諾し向かったという。
継体大王がヤマト入りしたのは樟葉宮より20年後で木津川・淀川流域を転々としていた。
それについては故郷の高向が九頭龍川流域であったこと、そして水運・海運に好立地であること
だとされている。百済本記の記事「531年、日本の天皇、太子、皇子、共に没せり」より
531年が死亡年とされている。亡くなる数年前に九州筑紫長官の磐井氏と戦う。
継体大王及び父方の祖先・親戚系譜で確かとされている中に「波多」という名がありました。
秦氏かなと推察していますが定かではありません。
石棺の材質からの考古学的分析研究が進められ継体大王の姻戚先である尾張連や尾張連の
縁戚である群馬の豪族古墳の石棺との類似も明らかになっています。
継体大王の軍事的背景には、馬軍・水軍・陸軍が充実していて、中でも帆を備えた船を備えて
いたことが土器の模様などから伺えます。また時代的な考察から継体大王は「製鉄王」とも
いわれており朝鮮半島からの鉄素材流入が途絶え、国内調達が各地で進められる時代が
始まる中で彼がそれを統括していったとされている。鉄即ち武器である。
継体大王が越前から姻戚関係を結びながら着実に地歩を固めつつあった頃近畿中部の淀川水域
一体では秦氏を筆頭にした帰化氏族がその地盤を固めつつあったのです。470年〜499年にかけて
葛野大堰を造った秦氏一族は「秦造酒が一族を統率成功し朝廷に絹を大量に献じう豆麻佐の姓
与えられる」という記事が残るほどに勢力を確かなものにしていたのです。
[ MEMO 015 ]1999.3.26 岡山県総社市紀行ー真夜中の訪問
「高梁川を総社駅より蛇行しながら上ると窓ガラスが曇り始めました。民家の明かりは何もなく
道路沿いの街頭や時折見る看板の明かりだけでした。道路は川の東側。川沿いが分かるのは
橋の明かりに映えた水面の小波の揺らぎからでした。一度通り過ぎ戻ってその集落は橋を
渡ってありました。橋の名は濠渓秦橋という。なんとも頼もしい名前が付けられたものです。
確認できませんでしたがビニールハウスが居並ぶ少し異様ないかにも旧道という狭いあぜ道が
村道になっていました。幾つかの十字路には手書きの板看板が立てられ村内の案内にされて
いました。百軒あるかないかの小さな集落ですが古びた蔵もある。土塀もある。美作でみた
廃村のような軒もありましたが、総じて各戸広い敷地でした。幼稚園と小学校がありました。
道路工事中とはいえ何か外来者を拒んでいるように思えました。山腹に明かりが蛇行して山頂
まで続いていたものは簡易保養所への道でした。夜景を見ましたがどこかで見た景色です。
そこで初めて買ったばかりの市街地図を広げて驚きました。まるで嵐山の地ではないか。
するとこの夜景は岩田山から見渡した景色と似ているのだ。ここは秦村です。すると
対岸にあの「鬼ノ城」遺跡が鎮座する山があるのかと見れば樹木で遮られてここでは
見えなかった。」と走り書きしていました。そこへ行くまでは地名だけが残っているだけだと
思っていたのですが秦氏一族の子孫が村毎あったのです。例の秦廃寺も見ました。私宅の敷地
内にあるようでした。ビニールハウスの中は多分柚でしょう。水尾は柚の里です。
一ヶ所のハウス入口に柚の彩園と書かれてありました。(これは調べた結果、現在の栽培は
マスカットということでした。しかし気候風土を考えると古代にあっては柚を栽培していた
ことも否定はできません。)
水尾とは奥嵯峨の地、継体大王の生地越の三尾から付けられたと考えられる地名です。
推理は繋がり続けます。六世紀以降の秦氏一族の史書から消えた謎の一端がこれで証明
されたのかもしれません。これがおののいた理由です。
[ 追記 ]
「宇宙皇子」という歴史小説があります。その本で「鬼」のイメージは新たになりました。
日本には修験僧が人知れず全国津々浦々を暗躍していました。その小説は多分彼等にヒントを得て
書かれたフィクションだと思いますが、私が今までに得たもので言いますとあながち
フィクションではなくて事実の上に成立したところがあると考えます。
昨日訪れた総社には鬼之城遺跡があります。山頂に築かれた要塞には下水道まで設けられています。
石で築かれた城です。しかも七世紀です。このことは既に邪馬台国のページで書いていますが
今回は現地周辺の空気を味わって意を強くしてきました。驚いたことに嵐山・嵯峨野と瓜二つの
地形があり今でも鬼達の集落が残っていて静かに謙虚に1300年間を過ごしているのです。
継体大王の史実にも驚きましたが、今回はより以上におののきました。
源氏や足利氏や徳川氏が日本を制覇した時代は確かにありましたがそれは政治が関与してきた
ものです。しかし鬼達は生活に根ざした形で日本の礎を築いてきました。
様々な疎外を受けながらです。その一端を解き明かしたいと考えています。