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古代メモ 十三 ー 記載事項リスト ー [ MEMO 119 ] 2000.11.19 伏見義民 [ MEMO 118 ] 2000.11.12 松山の大環濠跡 [ MEMO 117 ] 2000.11.7 石器発掘について [ MEMO 116 ] 2000.10.29 四世紀末の山形山辺町の円墳発掘 前頁に予告しました「不思議な出来事」については次のページで扱うことにしました。 つれづれに【 残照 】 [ MEMO 119 ] 2000.11.19 伏見義民 搾取と圧政に苦しむ町民や村民が、死を賭して幕府に直訴する。彼等を義民という。 1785年直訴した人々の碑が伏見にある。明治になって、勝海舟と三条実美が 碑文と題字を奉納したという。 リーダーは刃物鍛冶、農業、酒作り、塩、炭、材木、陶器を職にする七人。 かって、義民を初めて知ったのは滋賀の蒲生郡にある石碑でした。 義という言葉の本来のイメージは義民であるべきだと思います。やくざではない。 義民の心の故郷は古代の歴史に埋もれていると考えています。 発端は境遇ではなくてソウルだと思っています。
参照2000.7.23文学日誌より
一揆について注目している。侵略行為ではなくて、自分たちの生活を守る為の 集団強訴の実力行使です。室町時代末期の山城一揆、戦国時代の長島一揆、 江戸時代の甲賀一揆などがあります。古くは将門の乱も見方によっては 一揆といえるかもしれません。江戸時代の末期、1842年に起った無血の 甲賀一揆は江戸幕府の新田発見検地を阻止して終わった。 ただ、後に、八十余人が捕らえられ、首謀者達は拷問の上、江戸送りになり、 不当検地を訴えるも首謀者とみなされた十一人全員が帰らぬ人となった。 彼らの碑が今もあります。「天保義民之碑」という。 当時、一揆を起こせば死罪の時代でした。首謀者の中には、近江聖人と敬愛された 中江藤樹の陽明学を学んだ人々がいたという。いずれも庄屋です。 甲賀といえば、甲賀忍者の里です。そこから伊勢への道をゆくと伊賀の里がある。 戦国時代、甲賀の人々は土地の領主に加担せず、自らの生活を守るべく 織田方に従ったといいます。後には、家康に従った。 甲賀一揆は彼らが野洲川沿いの土地を開拓して新田にしたものを不正に検地され、 年貢を割増されることへ抗した行為でした。 十津川郷士といい、郷の心意気を強く覚えました。一揆の歴史をいつか調べたいです。 [ MEMO 118 ] 2000.11.12 松山の大環濠跡 弥生時代前期末〜中期初頭(紀元前二世紀頃)の環濠の一部が発掘された。 松山市の祝谷遺跡群の中の畑中にある遺跡で見つかった。 国内最大級の大濠跡で長さ約28M深さ3.5Mで推定によると その環濠内の広さは130M〜160M四方あるとされています。 道後温泉地に隣接する丘陵地です。松山の温泉は一説に大国主が第一発見者という 話があります。先日知ったことですが愛媛の東部四国山中に別子銅山があった。 鉱石を求めて大国主もまた旅したのであろうか。 さらに想像たくましくするならば、ため池跡とは濠とも鉱脈探しとも通ずるのだろうか。 鉱脈発見の技法なるもの興味があります。 [ MEMO 117 ] 2000.11.7 石器発掘について NHKの報道特集で「神の手」と言われる人が紹介されて半年も経っていない。 考古学に灯火を当てた人であった。カリスマ的な存在として多くの信頼と尊敬が 彼に注がれていた。彼も人であり、人から離れてカリスマを追っていたのでしょうか。 彼の語ったメッセージは素晴らしいものであった。それは消えはしない。 私達はカリスマを追ってはならないのです。歴史はどこまでも歴史です。 ロマンは豊かにありますが、それは自分で築くものです。けっして別のものの上に 築いてはいけません。 [ MEMO 116 ] 2000.10.29 四世紀末の山形山辺町の円墳発掘 東北地方で最古の円墳が発掘された。山形県内ではこれより50〜70年後の円墳発掘は 管沢古墳(古墳時代中期)がある。今回の発掘場所は山形の内陸部にある点で注目される。 埴輪などの出土物から大和王権の影響があるとされていて、その影響の年代が繰り上げられた ことになる。また今まで岩手県の遺跡などから太平洋岸とされていた影響の区域が東北の 内陸部に達していたことに意味が置かれています。 位置は、山形市の西部、西は山形・新潟の両「朝日村」に隣接し、東へ辿ると仙台に至る。 地理的に見れば、仙台方面から蔵王の北側ルートで接触したように推理できますが 「朝日村」の山岳地帯ルートも推理できないことはない。「朝日村」が気になります。 山形県朝日村から 朝日連峰、標高963mにある山上の湖「大鳥池」は“幻の魚タキクロウ”伝説で人気。 大鳥池に多数棲息することが知られているこの怪魚は体長7尺から1丈の怪魚として 知られています。口は三つ口で兎に似ているとか様々な伝説があるますが、 学問的には既知の魚ではない別種の魚類とされています。 田麦俣部落は、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所で、湯殿山信仰が盛んになるにつれて、 宿場的性格を帯びてきました。 このような環境の中に、この地方独特の建築様式を誇るかやぶきの民家がたくさん建てられる ようになりました。 『旧遠藤家』もその中の一つとして、江戸時代後期の文化文政年間に建てられたものと 推定されています。 当初は寄せ棟造りでしたが、明治に入って養蚕が盛んになると、屋根の改造が行なわれ、 妻側は「高はっぽう」という輪郭と反りが美しい「兜造り」に改造され、平側にも採光と 煙出しの窓が造られて、風格のある建物に変わっていきました。 内部は、1階が主に家族の居住用として使われ、2階は下男たちの居住用と作業場・物置であり、 その上に養蚕と作業のための三階「厨子」があり、さらにその上に物置用の「天井厨子」が あります。この地方は、土地が狭いうえに積雪が多く、建物の増築が困難でしたので、 毎日のくらしと作業・養蚕のための部屋が一つの建物の中にまとめられて、多層の形に なったものと推定されています。 新潟県朝日村から 古くから村上で三面川の鮭を「イヨボヤ」と呼びます。 「イヨ(イオ)」と「ボヤ」はそれぞれ魚を表す古語ですから、 魚と言えば鮭を指すほど、 鮭こそ魚の中の魚と認めていたのです。 ー 続く ー