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古代メモ 十一 ー 記載事項リスト ー 上古雑感(2)/上古雑感(1)/渡来系氏族間の確執/吉備・総社から播磨・小野市行/ 熊本の歴史/徐福一行の痕跡推理(2)/徐福一行の痕跡推理(1)/ 徐福の時代(2)ー始皇帝ー/徐福一行が残したもの/徐福の時代(1)/ 前頁に予告しました「不思議な出来事」については次のページで扱うことにしました。 つれづれに【 残照 】 [ MEMO 105 ] 2000.9.20 上古雑感(2) 大化改新以後、藤原氏の政権掌握は鉄と神宮の掌握を礎にしていると考えられる。 つまり、地方豪族を支配する上で鉄と神宮を供与することで実質的なTAKEを得た。 その役割を担ったのが渡来系氏族である鴨氏と秦氏で、血縁関係を含めた氏族の混成と 考えます。天皇支配が稲作物にあるのだから、当然のことかもしれません。 先兵となった渡来系氏族達にとってもまた、その治水工事を含めた稲作技術の導入に よって地方での地盤固めを着実にしていったと推理できます。 記紀に記載のない石城の多くは渡来系氏族によるものです。大和政権の防衛観とは別に 渡来系氏族は渡来先で築き上げた自分達の偉業を誇示する為に、円墳等の古墳築造と同様の 思いで石城を築いたと考えます。 参考(主な石城) [岡山・鬼ノ城][高松・屋島城][広島・茨城][滋賀・高島郡三尾城] [佐賀・おつぼ山城][熊本・菊鹿町] など瀬戸内や九州に27個所記載あり(総社通史より)。 [ MEMO 105 ] 2000.9.14 上古雑感(1) 通史という市町村の歴史編纂に触れてみて思うことがあります。 教育委員会が主体になって地道な活動を続けての成果ですが、風土記の編纂から実に1400年の歴史の重みが 伝わってきている。それが惜しいかな線や面や立体などに展開することなく、ともすれば意固地なまでに 閉鎖的な状況のままに留まっているのが感じられて実に惜しいと思える。 日本人の悲しい宿命のようにも思います。 グローバルな取り組みにはまだ数世紀が必要な気もしたりして、歴史研究の奥深さを知ります。 京都の歴史をメインにして、全国の地域の通史をまとめることの試みがそろそろ本格的に実施されても いいのではないか、そのためにはある程度の粗野な扱いやまとめもあっていいのではないか、それが インターネットの果たしうる機能のようにも思えます。 司馬氏や民俗学のスペシャリストなど先駆けをした人々を多く私達は持っている。 そのことをもっと大事にしなくてはと考えます。大胆な歴史考察はもっともっとなされていいように思うし、 活用してもいいのではないでしょうか。文献は人の一生を通しても読みきれない遥かな量があります。 手元に最近集めた、総社通史・小野市の歴史書・波田町通史だけでも凄い分量です。個別に展開したり 結びつけたりするにしても数年の単位ではないです。実感として分かる。 分かることの中に、上古や弥生時代の様子が細かく据え置かれていることに歯がゆささえ抱きます。 私達にできることがあります。それはネットにページとして掲げておくことです。学問的な正しさがどうかは 二の次のように思います。それらは情報を活用する側の自主的な素養だと考えます。 誤りを論じたり、指摘したり、その為に互いに宝を埋めてしまうことにむしろ懸念すべきように思います。 [ MEMO 104 ] 2000.9.9 渡来系氏族間の確執 争いではないと思っています。少なくとも大化の改新のごときものではなかった。六世紀の初め頃、京都の 上賀茂の地に進出した鴨氏(秦氏と提携)としのぎをけずった小野氏は北山そして奥地へと転進することになる。 平安遷都の頃には小野氏の所領は供御地などとしてほとんど失っている。北山周辺から消えているのです。 しかしながら、嵯峨朝の頃には要職に返り咲いていた。これまでの推理では、長野や東北や四国などに散ら ばったと今日残された多くの地名から捉えていましたが、彼らの製鉄や木地師の技術を地方豪族に吸収されて いったと考えることができます。それは時代の潮流によるものと推測しています。 総社通史にも小野氏とは書かれていませんが、後進してきた秦氏と既存の製鉄に携わった氏族との確執が掲げて あり、渡来系氏族間においてもその勢力の入れ替わりが頻繁になされたと考えます。そもそも京都において さえ、秦氏と称する人々の間においてもしのぎあいがあったといわれています。 七世紀から八世紀にかけて四国の讃岐や伊予へと京都から流れた秦氏を思えば、流浪の先人として小野氏を 推理することも可能なことと思います。それは製鉄関連技術の地方分化の動きと捉えうることではないか。 [ MEMO 103 ] 2000.9.9 吉備・総社から播磨・小野市行 連休利用して一年ぶりに総社市に行きました。前は夜の総社行でしたが、今回は真昼の総社行でした。 鬼ノ城の遺跡もつぶさに見てきました。古代史の資料も入手してきました。帰りに、三木市の隣の小野市にも 立ち寄り資料収集。大いに収穫ありました。これからの古代史メモを楽しみにして下さい。 小野市で最初に今朝寄った喫茶店、店名が「グランド世紀」。普通の店でしたが、横一m縦六十cmの 万里の頂上を描いた油絵が印象的でした。中国製の陶器の置物もあったりして、さすが小野の住人と思った。 小野好古館があって不思議に思いつつ期待しましたが、古を好むという意味で京都の小野氏とは違いました。 小野の地名は、伊予の河野氏の流れの小野一柳家から付けられたとか。しかしながら無関係とは断言できない 謎ではあります。資料を見れば秦氏の一族もいたし、鉄や馬飼にも関与した氏族が古墳を多く残していました。 吉備とともに播磨も上古を解き明かす地域であることはますますはっきりしてきたようです。 さて、鬼ノ城ですが、その遺跡もさることながら、そこから見渡した吉備の一望はすごい景観でした。 王者の古墳ではないかと思った。それだけの一等地と言えます。広さは約800m四方もあります。 遺跡は埋もれたままだったので未だに土も石も輝いていました。この城は果たして防御の為に建設されたのか と思います。排水用の水門が頂の谷部を利用して五つもあり、象徴的な石城といえます。 ここから麓に攻め寄る侵略者を仮想したとも思えない。篭城するとしても戦略的なものでなく、威圧するもの として設けられた感が強くしたものです。(文学日誌より) ( 補足二 ) 鬼ノ城築城は温羅(うら)一族の築城・篭城伝承が一方であります。斉明記に記載がされていないことが 謎めく原因となっています。下記にあるように大化の改新前後に秦廃寺や大崎廃寺が建立されているのを、 考えますと聖徳太子ゆかりの豪族達が地方において独自の勢力を樹立し動き始めた時期と考えられます。 特に渡来系氏族で伺えるのではないでしょうか。秦河勝の富士川での征伐に示されるように、大和政権下に ある地方官吏の統率力の低下が指摘される時代でもありました。そんな状況の中で記紀の中に渡来系氏族の 独自性を記述するのは控えたと思えます。総社通史には、斉明朝の失政を覆う為と述べられていますが 幾つかの理由から控えたと考えることが妥当と思っています。 ( 補足一 ) 賀陽町へも訪れてみた。そこは総社にある秦村から豪渓を遡った北西部に広がる平坦な高原地でした。 京都府の丹波高原にそっくりでした。 古代において賀陽町の雄族は加夜氏という加羅から渡来した渡来系氏族であった。彼らと同じく賀陽郡内の 足守川東岸にひろく根拠を構え640−650年頃大崎廃寺を造立した秦氏と高梁川以西の秦氏(630年頃 秦廃寺建立)と他に下道氏などが「鬼ノ城」築城を成し遂げた主要勢力と総社通史は述べている。 記紀に記されなかった理由である。当時の大和政権がなんら関与しなかったからでもあると考えます。 当地の秦氏が鉄に関与したのは錬鉄の鋳工であることも知りました。播磨小野における秦氏もまた、それより 半世紀早い時代に鉄と関わりを持っていたことも知りました。その作業には膨大な木炭が必要であることも 書かれていました。小野氏は木地師及び鉄鉱石を発掘する技術を有していたことは知られるところです。 小野市は賀毛郡にありました。鉄に携わる人々の多くは毛人であり夷と呼ばれる囚人達でした。 [ MEMO 102 ] 2000.9.3 熊本の歴史 徐福と佐賀の歴史との関連は最近になって注目されてきましたが、調べるうちに隣県のかつての肥後の国も 併せて考慮しなければと思い至りました。古代に「火の君」という豪族がいたことを県のページで知って 北熊本の菊池一族などともに関心を抱くこととなり、熊本の歴史を辿ってみたい。 古代の熊本は磐井の反乱以後、その豊かな土地に注目され屯倉がいち早く設置されました。土着の豪族である 後の菊地氏や阿蘇氏などの祖となる諸豪族が分立する国でありました。装飾古墳の多さが物語るところです。 彼らは北熊本から球磨に至る高原地域を本拠にして勢力を維持していたと考えます。隼人やクマソ族との血縁 を通してきたともいわれています。そのことは、室町時代の菊池氏の筑後川一帯への進出奇抜な行動に伺える。 時は今川貞世が九州探題任地で九州全域を治めていた頃です。当時の様子はまさに三国志の時代の小競り合い を彷彿させているようです。室町から戦国時代にかけての九州の勢力変遷は面白いです。 龍造寺氏は1185年に鎌倉御家人となり龍造寺の地頭職から頭角を現し、大友氏の祖は大友皇子にまで遡る。 藤原秀郷の後裔ともいわれる。少弐氏と共に足利尊氏に属し勢力を高めた。島津氏は頼朝の挙兵の際に活躍して 日向・薩摩・大隈の地頭職に就いてから頭角を示した。これら三氏の狭間にあって肥後の国だけは南朝方を 貫き、遂には勢力が果てることになるのです。何ゆえに、南朝に固執したのか、あるいは尊氏に反旗を示した のかが興味あることです。 九州探題・今川貞世について 今川範國は足利尊氏に従って功あり、駿河の守護に補され東海の名門となる。 彼の祖父・吉良國は源頼朝の従姉の子であり、足利義兼の曾孫である。三河幡豆郡今川荘を領して 今川氏を称した。今川範國の子が今川貞世であります。百年の後に今川義元が権勢を誇ることになるが、 その礎を築いたのが今川貞世であろう。彼はまた冷泉家の自由な歌風をもつ歌人としても有名である。 大内氏と同時代を生きた武将といえるだろう。遠江守護の時に功ありて細川頼之によって推挙され九州の 幕勢挽回を託された。 吉良の仁吉と清水の次郎長・・・とにかく歴史に名を残す人々はこぞって同じ民族のような気がしています。 [ MEMO 101 ] 2000.8.30 徐福一行の痕跡推理(2) 稲作の伝播ルートは、瀬戸内海経由がまず考えられており、次いで日本海北上で近畿圏に伝播したと されています。愛知へのルートは陸路とされています。従って紀伊半島沿岸経由は特異なものと 考えられ、熊野における徐福伝説は信憑性が少ないと考えるべきであろう。 定着した本拠地を出雲の国と考えます。さらに海人族の祖先が彼らの子孫と仮定してます。 平和的な融合を想定しつつ、越の国、富山の布施の神、長野の巫女族なども視野に置いています。 青森から太平洋岸を南下し、房総半島に達したと想定してもいいかと思います。 [ MEMO 100 ] 2000.8.28 徐福一行の痕跡推理(1) 全国各地に伝わる伝説や史跡については、それぞれの書物やページを参照して下さい。 ここではそれらを考慮しつつ、私なりの推理を語っていきたいです。 まず着目したのは、弥生時代の埋葬人骨の発掘遺跡でした。とりわけ300体が発掘された 土井ヶ浜遺跡で場所は、山口県豊浦郡豊北町の神田岬の北側の入江です。関門海峡から 40km離れた所にあります。遠賀式土器で有名な遠賀川河口から当地に至る間に地図上に 女島・男島が二対書かれていました。八丈島に徐福伝説があって、同じく女島・男島がある。 かつて女護ヶ島と呼ばれた八丈島、別名男島の青ヶ島というわけです。 また、四国・高松沖に、桃太郎伝説の元になる鬼人伝説で知られる女木島・男木島など 他にもみいだされます。関連するかは調べる必要があります。 土井ヶ浜人骨の埋葬は意図的な施しがなされている点で秦の時代の風習が伺えます。 次に熊本の山鹿市一帯に着目してみました。たまたま千人灯篭踊りの放映があって検索した ところ「装飾古墳」のページに出逢いました。それによると全国に400ほどの装飾古墳が あって、北熊本に半数近くあり福岡と鳥取に約50ずつあるという。 北熊本に隣接するのは福岡県八女郡で、八方ヶ岳という山が北熊本の菊鹿町にあります。 八という文字と徐福はヤタガラスや斉の国(徐福の故国)の八神などで関連するとされている。 [ MEMO 099 ] 2000.8.16 徐福の時代(2)ー始皇帝ー 始皇帝(BC259〜210)は23歳から50歳まで27年間独裁君主の座にあって 多方面の事業を展開した。最後の国の斉を滅ぼしたのがBC230〜221です。 彼のブレーンには法家である韓非子と儒家で性悪説を唱えた荀子に学んだ法家の李斯 がいた。末年の焚書坑儒に示される狂暴さは知られるところです。信長を重ねる。 北辺の匈奴をBC215、南辺の越族をBC214に滅ぼすと残るは大海の先になった。 征服の後は、過酷・非情な弾圧であったけれど、それは反乱の兆しが顕著であったこと でもあるといえます。大海への執着は弾圧への反動とも考えられる。 晩年の性急さの背景は興味深いことです。彼の父は秦の荘襄王とされているが、彼らの 即位に尽力した巨商・呂氏の子という説もある。彼の後世に残る偉業を見る限り、 経済の才覚は秀でているだろう。なにしろ都に12万の全国の富む人々を移住させている。 信長が一機に安土を商業の中心にしたことと似ているではないか。 徐福との出遭いはいつであったのか。 秦の歴史では、職務を怠った大臣や王侯を死刑にした例は非常に多いという。 「徐市など数万の巨費を費やして、ついに薬が得られず、姦徒が利の為に告げ口をする のが、毎日聞こえる。」と語ったのは、焚書坑儒の前年BC212年といいます。 徐福一回目の航海がBC219年で、彼が斉を滅ぼした後と推測できます。 にもかかわらず、始皇帝は徐福に対して亡くなる年においても接見を受けたり、奏上を 許されているし、親しく船に乗り込み、船と人員を補強し物資を補給して再度海に出よと 命じているのです。(史記) 妖言で大衆を惑わし、上を犯して謀反したとされた儒者を一回で460余人も生き埋めに した同一人とは思えないことです。謎であり、司馬遷の理解に苦しむところだったという。 徐福が始皇帝の野望を挙行したのは、彼の死後五年以上経ていた。 それは成立したばかりの漢朝の治安が為される間のことであったという。 [ MEMO 098 ] 2000.8.13 徐福一行が残したもの 最大のものは稲作であっただろう。急速に伝播させたものは航海であっただろう。 徐福の肩書きは方士です。思想家であり、政治家であったと書かれていました。 出身地である斉の国は海浜の国といわれ、他国が戦国時代強兵策を推進する中で 斉は方士を多く擁し文化の発展に力を注いでいたといいます。随行する人々の 選定においては、軍事より生活に重きが置かれていたと考えます。 侵略ではなく共存が定着の目的であったと思います。 BC千年頃、殷の崩壊時に「箕子」が漢人五千人を率いて建国したとされる 箕子朝鮮は伝説的王朝といわれています。秦の時代までその王朝は存続していた。 徐福はそのことを知っていたのだろう。徐福だけでなくそれ以前にも中国で国が 崩壊すると大移動がなされたと言います。日本への帰化人の渡来は紀元前の歴史 から定着したものであったことを知りました。 台湾や沖縄列島・九州への移動ルートは、徐福の時代においては漁民ルートを元に 敷かれていたと思われます。大量移民を航海で成立させるには長きに渡る準備が 必要であったし、始皇帝の度重なる現地視察行はそれを裏付けているという。 邪馬台国の時代に航海が天に叛く行為であるという考えは、中国では当時既になく 航海術の確かさを見極める慎重さからの準備期間であった。 司馬遷が徐福の偉業を軽視したのは伝説という判断ではなくて、歴史記述への 視点の違いと述べています。 [ MEMO 097 ] 2000.8.12 徐福の時代 最近出版された「徐福ー霧のかなたへー」(第一書房:程 天良著)を読んだ。 私は大胆に大国主=徐福と仮定したのですが、この著者は神武天皇ではないかと 切り込んでいた。実に興味深いです。面白いという意味であり、ロマンとして 大いに構想していきたいものです。世界史の観点から言えばコロンブスと同じ 程注目すべき人物とここではされている。愉快です。 中国の歴史に精通されているから、徐福の過した時代背景も詳しく述べられています。 日本における古代水軍の実態は考古学的な遺跡の発掘も最近顕著にあって、弥生時代に 中国では造船技術と航海技術の高度な発展が為されていたといいます。徐福がメキシコへ 渡ったという説もありうることとされているようです。 縄文時代には十人乗りの丸木舟があり弥生時代初めに、百人乗りの外洋船建造が実現 していたということになります。始皇帝の財力と海外への野望という視点から論じられて います。単なる一個人の不老長寿薬を求めた伝説ではないことが述べられているのです。 ー 続く ー 嵐山古代史古代メモ110111213嵐山文学

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