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古代メモ ] ー 記載事項リスト ー 愛知県吉良町・幡豆町/茨城県/行基という僧/「布施」や「布勢」/佐賀と徐福伝説の跡/ 山城町の虫送り祭/青森市三内丸山遺跡の集落論/佐々木氏のこと/「吉田」という地名/ 前頁に予告しました「不思議な出来事」については次のページで扱うことにしました。 つれづれに【 残照 】 [ MEMO 096 ] 2000.7.16   愛知県吉良町・幡豆町 三河湾の西端に面した愛知県吉良町と幡豆(はず)町の境に幡頭神社があります。 この一帯は幡豆郡であります。 継体天皇時代の東征水軍の基地をこの地に今仮定してみました。 知多半島には武豊(たけとよ)町があります。北部には額田郡や加茂郡が広がっています。 継体天皇が即位前に伊勢の豪族と姻戚関係を結んだ背景と考えられます。 そして、次なる中継地点は伊豆半島の手前の大井川河口付近、関東に入ってからは 千葉・茨城へ、または相模湾から陸路となるかと思います。 「はず」という言葉は「やはず」のはずの意味が一つあります。 「やはず」氏という地方豪族が常陸風土記の中に記されています。 弓体の上下両端の弦をかけるところを「はず」といいます。 肝心な部分と解釈ができますし、三河湾〜伊良湖の岬を弓とみて はずの位置にある地域とも理解できます。 幡頭神社 大宝2年(702)文武天皇が社殿を建て、神宝の矛(ほこ)を納めて神体として 祭られました。そして、仁寿1年(851)に文武天皇より従五位下を授けられました。  その後、武将の崇敬も厚く足利尊氏、今川義元らも参拝して神宝を奉納しています。  本殿は、天正8年(1580)に再建されたもので、桃山時代の優れた建築です。  また、幡頭神社本殿は、国指定重要文化財に、幡頭神社境内社神明社本殿、 熊野社本殿はそれぞれ県指定文化財に指定されています。 [ MEMO 095 ] 2000.7.16   茨城県 2000areaで茨城県を扱って、幾つかの手応えを持っていました。 それ以前に大まかな推理がありました。それは継体天皇時代の鉄資源の調達範囲で 太平洋岸ではどこまで行くのかということで、少なくとも千葉・茨城は含まれる ということでした。地名を見た限りでもその可能性を抱いていました。 (例えば、鹿島灘沿いの旭村、下りて旭市、近くの山田町、松尾町・・・) 今回藤原鎌足の鹿嶋出身説(一応未確認な為に)を展開されるページを訪ねて 久しぶりに熱くなりました。 それとは別に常陸風土記にも関心があって、ほんの一部掲載された歴史本で 六世紀〜七世紀初めに中臣氏の名前を幾つか見ていました。 ー他に国樔(狩猟民の略奪集団の呼び名)が大和地方での呼び名であったことや 茨城における国樔なる人々が後の鹿島軍を構成した人々であることも知りました。ー 茨城は大和政権にとっては重要な拠点です。信濃経由の陸上部隊と合流する地域 と捉えています。栃木境の栃木・馬頭町がそうかもしれません。 太平洋側の水軍東征は継体天皇以後と考えています。ただ気になるのは徐福伝承です。 青森に以前片目の徐福伝説がありましたが、津軽海峡を迂回して南下したことも考え得る ことではないかと思っています。何しろ徐福来航から700年が経過している。 常陸風土記は東国・東北の古代歴史を知る上で欠かせない資料です。(汗汗・・) 藤原鎌足についての参考ページ
(茨城) きんたろうのホームページ [ MEMO 094 ] 2000.7.13   行基という僧 新潟県の信濃川沿いにある長岡市と三島郡三島町のことが気になって検索しました。 いずれの地域も縄文時代早期の遺跡が発掘されていて、歴史は古い。 地名の由来についてはどちらも定かでなく、 ただ、長岡では「古代の長岡は高志国造に属し、高志、越、古志と呼ばれていたが、 このよく似た言葉には、謎が多い。古代の終わりころ、長岡付近には四つの荘園と 二つの保があった。一体、それらは、今のどこにあたるかは詳やかではないが、 その律令時代には豊かな産物が京の都へ運ばれていったのであろう。」と記され、 三島町では、「寛益寺は、養老2年(718年)に行基によって開基されました。」と いうのを気に留めました。京都の幾つかの社寺で行基の開基という言葉を記憶して いましたので、行基について調べました。結果、 彼の俗姓は高志氏という。長岡の高志は近隣の三島町の寛益寺を開基したのであれば 行基に絡む地名であることは想像できます。 「『高野新笠』の父は朝鮮半島南部の百済から渡来した和乙継(わのおとつぐ)、 母は土師真妹(はじのまいも)という。和氏の先祖は538年に仏教を公式に日本に 伝えたとされる聖明王という。母方の土師氏は渡来人ではない。土師氏はもとは堺市の 百舌鳥の出で乙訓郡に移った。・・・」(古代メモ3より)とあるように、彼の下の略歴 から考えると長岡・三島の地名は縁深いと想像します。 行基略歴(668〜749) 生まれは和泉国大鳥郡(現在は堺市)、父は百済王の子孫、蜂田の首の長女。 15歳で出家し、法相の宗義を学び道昭らに教えを受ける。諸所を歴遊して自行化他に 尽くして池や溝、橋、道などを道俗の人々と作り歩いた。 717年、勅をもって大宝の僧尼令に違反すると、誤解を受けて行動を禁止される。 しかし彼は同じることなく続けた。725年に京の山崎橋を架けて聖武天皇の尊信を 得て後、認められ745年には大僧正の位を授けられ、400人の得度者が彼の下で 公に修業することになった。 道昭法師についてー役行者と岩橋(葛城山)よりー 茅原で生まれた役行者は額に小角があった。三宝を信じ、毎夜五色の雲を呼び寄せ天外に 飛び出て、大勢の仙客と共に遠く霊地に遊んだ。また岩窟に入って葛を着て、松を食い、 清泉に浴して欲界の垢を洗った。孔雀明王の呪法を修行して、思う侭に魂を使っていた。 遂に大和の葛城山から金峰山へ大きな長い橋を架け渡そうと計画し、近くの神々にその援助を 命じた。葛城の一言主神は容貌が甚だ醜かったので、夜の役だけつとめたため橋を渡すことが 出来なかった。行者は怒って一言主神を呪縛した。一言主神は怨みをもち藤原の宮の天皇に 讒言した。文武天皇は直ちに勅を下して使いを遣って行者を捕らえさせた。行者は験力をもって 怱然として空にのぼって飛び去り、容易に捕らえさせないので、その母を捕らえた。 行者はやむを得ず、母を救うために姿を現し神妙に捕らえられ、伊豆の大島に遠流された。 海上を走ること陸を行くようで、昼は島にいても夜は富士に登って修行し、一日も早く大和へ 帰れるよう三年の間毎夜お祈りをした。大宝元年の正月に許されて大和に帰ったが、その後は 仙人となって天に昇って大陸に渡った。 その後、道昭法師が、勅命をうけて、大唐に法を求めた時、新羅の山中で五百人の集まりに 法華経を講じていると、その席に日本語の上手な人が来ていた。名を聞くと役の優婆塞だと 答えた。さては名高い役行者であると驚いて高座を下りてその人をさがすと、何処かへ去って 姿はなかったという話が『日本霊異記』に出ている。 [ MEMO 093 ] 2000.7.9   「布施」や「布勢」 佐賀市に多布施川があります。富山湾沖に古代、布勢の神がいるという。 大阪市と東大阪市の境目に近鉄布施駅がある。ここから奈良の橿原方面ゆきと 生駒・奈良市ゆきに路線が分かれる。ところが地名には布施という名称は今日ない。 駅名だけが残っています。(何か意味がありそうです) 布施という地名は、富山・山口・長野にもあります。布施、田布施、小布施など。 滋賀県の八日市市に布施神社があります。鎌倉時代からの神社といいます。 yahooの検索ですから、それなりに著名なんでしょう。 日々の生活や地域の活性化という点で、帰化人が日本にもたらした功績は計り知れない。 平安期の中央政府なり官職の位にいた暴利を集める一部の人々の横暴さは、やがて 地方の反旗をもたらし、潰えるのです。そしてそのことを歴史の上で可能にせしめた 土壌は帰化人達の地道な且つ並々ならぬ生の発露にあったと考えています。 (情報93-1) 富山の布施ー富山湾の西端にある氷見市にあります。能登半島の根っこの区域で石川県 の海岸には有名な千里浜があります。氷見は漁港の拠点です。 布施の近くに二上山があります。 山口の田布施ー柳井や大島に隣接する熊毛郡にある町。西には光市がある。 序に、安芸の宮島の対岸は大野町でした。 長野の小布施ー長野北東部にある町で東に松川を遡ると山田温泉がある。 序に、千曲川辿ると信濃川その河口には長岡市と三島郡三島町、 さらには吉田町もあった。これらは新潟県です。2000AREAでまた扱います。 [ MEMO 092 ] 2000.7.7   佐賀と徐福伝説の跡 昨夜日誌で佐賀県のことを調べて、序に今日は2000AREAも作成しておこうと 検索で県のHPを読みました。その前に地図でいつもの下調べをしていましたが 南北波多という地名や大野岳、鬼の鼻山、波多津などが記憶にありました。 なんと佐賀市周辺では徐福伝説が史跡として多くあることを知りました。 秦氏を調べ始めた二年前は伝説というものに関心はなく、小町伝説や空海伝説と 同様に扱っていましたが、二年の間全国を巡るうちに伝説に対する接し方が変わって きました。注目に値することだという考えになりました。無論自分なりに検証はします。 北波多は波多氏が鎌倉期を含め十七代続き大陸貿易で名をなしたと知りました。 佐用姫の伝説があって、これは兵庫県にある佐用という地名と通じるものか。 兵庫には波多野氏が戦国期居城していました。 (余談になりますが、 波多野氏は秦野市を調べた際に調べ無関係でありました。今回も調べましたが結びつける ものはなかった。ただこの波多野氏は応仁の乱の時に細川氏の有力な被官で功為し 細川政元から丹波国に所領を与えられたとあります。元は石見国の人で吉見という。 母方の姓である波多野を家名にして丹波に居城しました。 石見国には出雲街道沿いに波多という地名があります。広島吉田町・吉田村の近く) 有田焼きの窯元には一度車で行ったことがあります。その際に列車で佐賀の田園を 見た時と同じ感慨があったことを記憶しています。そこが南波多や小字大野、吉田 大川内なんです。無論当時は知ることはなかったです。 取り敢えず調べ始めの事柄を記しておきます。 松浦党について 松浦の始祖は源融という。 1185 3月、松浦党が壇ノ浦の戦いで平家水軍として活躍し、後に源氏に寝返る。 源氏の流れをくむ松浦党の照山公持が、平戸の館山に初めて城を築いたのは、 鎌倉時代初期のことである。以来700年間、平戸は松浦氏の城下町として栄えた。 又、室町時代は八幡船の根拠地になるなど、海外貿易としても盛んだった。 『松浦氏と平戸貿易』という本に 水軍を利用して大陸貿易をしたり、その時期流行った「倭寇」にも参加していたと いう。藤原定家の『名月記』の嘉禄二年(1226)の状に松浦党というものが、朝鮮半島 の島に上陸して合戦し、半分は死亡したが残りは資材を奪って逃げたと記されている。 南北朝時代(1336〜1392)に松浦党の棟梁波多氏が築城した山城がある。 唐津焼きの起源は、室町時代末から桃山時代にかけて、岸岳城主波多氏の保護の もとに 雑陶を焼いていたのが始まりとされています。 (情報92-1) 源融・・・・(822-895)小野小町と同時代過した人。嵯峨上皇は亡くなる前に元服させ 仁明天皇の子とさせた。大家父長制及び生母が大原氏の出ということなどの理由がある。 瀬戸内が海賊の世界になったのは九世紀後半から。中央政府が本格的に取り組んだのは 十世紀になってからです。藤原良房の後継者基経が中納言になって源融の位に並んだのは 868年のこと。嵯峨上皇が藤原氏の目付け役として考えたかどうか分かりませんが、 源融はその役目を為したと思います。後に平家の基盤を為した忠常が海賊と繋がりを もったとされることと松浦の始祖は源融とされることは類似したことのように思う。 (情報92-1)徐福関連リンク 神奈備にようこそ 三重県立図書館ー徐福についてー 徐福物語 (情報92-2)丹後半島の伊根町にも伝説がある。 丹後半島の入り口宮津・天橋立に智恩寺本堂文殊堂があります。 その寺に伝わる「九世戸縁起」の中にある話。 「日本の国づくりを行っていた神世に、天上から丹後の地を見ると、 『あらうみの大神』が荒らし回り、人は住むことができない。 そこで、龍神の導師である文殊菩薩を中国から招き、龍神たちの 改心を図ることになった。千年の間、 この地で説法を続け、龍神は宮津で菩薩の弟子となり、平和な土地には 人々が住めるようになった。」 この話の中の「千年の間」というのが、実は逆算して徐福の来航の頃になりは しないかと思っています。海人族である海部氏の祖先が城崎方面から来たという 話も以前にありました。 [ MEMO 091 ] 2000.6.27  山城町の虫送り祭 「虫送りの祭」というのがあると初めて知りました。かつては日本各地で 行われていたといいます。山城町の椿井大塚山古墳(前方後円墳)の すぐ南にある小高い山の上に松尾神社がある。ここでは今も年中行事の一つとして 行われています。当地の松尾神社の創建は秦都理とされています。 昨年、女王卑弥呼の墓ではと騒がれた発掘現場(memo31)の近くです。 京都木津川の蛇行する所にあります。洛西の松尾神社とは違います。 椿井大塚山古墳では多数の三角縁神獣鏡や多彩な副葬品が古墳本体から出てきた。 この祭、田植えが終わった頃に、害虫に田が荒されることを恐れ、豊作を祈りつつ 行う大事な祭です。火のついた松明を持って木津川の土手へ向って歩くそうです。 昔は北から南下してきた他の地区の者と喧嘩するのが締めくくりだったといいます。 南山城地方の穀倉地帯だった為に各地で廃れた祭が茲では残っているといいます。 この神社の近くには、古代の遺跡が他にも多く集まっていて、例えば高麗寺跡があり この寺では朝鮮半島からの渡来人を応接したとされています。 秦都理の建立は749〜757年とされている。 東の地方との遠隔地交易に秦氏が携わっていたのは、この地における情報入手による と考えられます。石川・岐阜・愛知には五世紀後半に渡来した移民集団が多くいて 各地の豪族支配になっていた人々を秦氏が大和国家の民として組織編成の任に就いた といわれています。 [ MEMO 090 ] 2000.6.25  青森市三内丸山遺跡の集落論 青森県を探索していて強く関心を抱いた論文紹介ページに出遭いました。 青森遺跡探訪というページです。 青森市三内丸山遺跡の集落論についての批評論文と受け取りました。 論文名は「北の文明南の文明」ー虚構の中の縄文時代集落論ー(佐々木藤雄)です。 全文が掲載されています。 到底古代メモで扱いきれない内容ですし、考古学研究の専門領域のことです。 しかしながら、そこに書かれ提起されている多くの批評なり考え方などは大変参考に なります。三内丸山遺跡についての知識も詳しく知ることができます。 同時に縄文時代の今後の考察材料が多々あって、大いに啓発もされました。 今から4500年前に当地においても縄文時代最盛期の集落なり文明の痕跡が消える ことにまず、興味を抱きました。 この古代メモの発端になった福井の鳥浜遺跡と時代的に一致するからです。そちらも 謎になっていて、集落の分散という判断で片付けられているのです。 鳥浜の場合には一応、海域の変動や気候の変動が関与しているといわれてはいます。 同様のことが三内丸山でも生じたのかもしれませんが、それ以上は推理の領域です。 私の古代メモの主旨でもありますので、その積もりで読んで下さい。 [ MEMO 089 ] 2000.6.23  佐々木氏のこと 滋賀県蒲生一帯に佐々木氏が出たのは平安時代前のこと。ところが奈良時代に蒲生郡には 大彦命という崇神天皇の叔父に当たる人の後裔という佐々貴山公が郡の大領となって赴 いている。宇多源氏佐々木氏とは一応異なるとされてはいますが、平安時代以降は、 その違いは定かでなくなった。区分できなくなったのです。 鎌倉室町時代にかけて、諸国の守護大名となった佐々木氏は、司馬氏も指摘するように 全国の三割は祖とするまでに勢力を広げたわけで、近江以西で少なくとも三割の郷士は 祖と名乗ることになる。 吉田にしても、電話帳で調べると嵯峨だけで100近くありました。五世紀も経てば 当然のことです。全ての吉田という姓の人が角倉了以と縁ありと言っても違うという 根拠は出て来ない。事実はそうですが、歴史に興味を抱いていく上での活力になれば 縁ありとしてもなんら支障はなかろうと思います。ただそれだけのことです。 正誤を問うことでなく、いかに「いい仕事をするか」ということが大切だと 赤塚不二夫氏も語っていました。その通りです。 余談序に、赤塚さんのニャロメは学生を象徴しているそうです。一方やたら鉄砲を放つ 警察官は当時の機動隊だそうです。羽田闘争で亡くなった女子大生がおられますが その事件の後に漫画に登場させたと言います。知りませんでした。 [ MEMO 088 ] 2000.6.17 「吉田」という地名 「2000AREA」で広島県を探索していましたが、神楽団と二つの出雲街道、 それに加えて、吉田町のページ記載が目立ち、訪ねてみて、展開良かったです。 以前から「吉田」の地名は留意していました。池田や山田、小野、大野、ハタと 同じ程にしていました。そろそろ自分の中で確信キーワードにしようと思っていた 矢先のことでした。 まず、広島県高田郡吉田町という地は、中国自動車道と出雲街道の間にあって 毛利元就の居城のあった地です。尼子軍三万を退けた地です。当時から郡都でした。 出雲街道を島根県に向うと県境に島根県吉田村があります。ここには古代からの タタラ和鋼製法が近代まで営まれてきた「菅谷たたら」があります。 もう一つの尾道発の出雲街道は石見銀山街道とも呼ばれています。 広島北地域に神楽団の結成が目立って多い背景には、加茂郡や吉備津神社がある ところからカモ氏の勢力が西日本で結集した地域だからと推理してます。 同時に愛媛に近い瀬戸内地域でもあるところから、確信キーワードにしました。 また1/26万の地図にありましたが、角倉了以の祖先の地が滋賀県の吉田 ということを知りました。今後意識して考察したいと考えます。 (情報88-1) 【中臣氏は常陸国鹿島神宮を主宰する神祇官の家柄で、大中臣氏、ト部氏、 あるいは吉田氏の先祖です。大伴、物部、忌部等とともに有名な氏族で ありました。それ故にその版図は広大で、大和、摂津、河内、紀伊、 美濃、讃岐、下総、常陸、下野、越前、越中、播磨、周防、阿波、 豊前、筑前、伊勢に及んでいました。ただし発祥地は大和です。】 (情報88-2) 全国吉田町交流事業が平成元年に発足してます。現在、新潟・埼玉・広島・ 愛媛・鹿児島・静岡の6吉田町が参加している。 ー 続く ー
嵐山古代史古代メモ110嵐山文学

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