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ー 記載事項リスト ー
[ MEMO 001 ]1998.10.19 秦氏ー柴田さんより
[ MEMO 002 ]1998.12.13 秦氏ーIKE氏ページより
[ MEMO 003 ]1998.10.19 吉備の鬼ノ城 ー 嵐山文学十号より
[ MEMO 004 ]1998.12.16 木曽義仲メモ
[ 義仲に関する情報 ] (西川さん等 のページより転載)
[ MEMO 005 ]1998.12.16 巴御前
[ MEMO 006 ]1998.12.17 木曽の系図 (千葉の柴田氏のページより)
[ MEMO 007 ]1999.1.10 義仲寺(ぎちゅうじ)ー京都新聞よりー
[ MEMO 008 ]1999.1.28 大原女・桂女・小原女・白川女(京都の女性史を読んで)
[ MEMO 001 ]1998.10.19 秦氏ー柴田さんより
氏内さんのお尋ねの秦氏について調べてみましたが、わかりませんでした…ただ、古代房総における
「馬」の生産と「帰化人」を結びつける史料はありました。また、妙見信仰と畿内の関係もわかりました。
直接、秦氏に結びつくことはありませんでしたが、帰化人と房総の関係としてここに書いておこうと
思いました。
古代房総における馬の生産について、『延喜式』のなかに、「上総国大野馬牧」なるものが載せ
られており、兵部省の管轄下に馬を放牧する官営の草原があったのでしょう。
古代日本には馬を飼う習慣や技術はありませんでした。これを大陸から伝えたのが帰化人たちです。
弥生時代後期から古墳時代にかけて、馬やそれを操る技術を持った大陸の人々が日本に移り住んで
きました。『日本書紀』にも百済王から馬を送られたとの記述ものこされています。朝鮮半島で
紛争が激化して、亡命する人たちが日本にやって来ると、朝廷は彼らを未開地に移住させて開墾を
促しました。和銅4(711)年、上野多胡郡(多くの異国人の郡という意味か?)が帰化人のために
新設され、その5年後の霊亀2(716)年、全国にいた高句麗の人々を、武蔵国の開墾に当てるために
武蔵に召集し、彼らのために高麗郡(高句麗の人々の郡?)を新設しています。
彼ら帰化人が東国に伝えたものは馬の技術、須恵器、瓦、織物、紙などがありますが、製鉄技術を
持った人々もおそらくいたでしょう。馬と鉄は切り離せない関係にあります。馬の蹄鉄は鉄の技術
がなければできませんし、轡も然りです。
馬の技術は、当時地方に勢力をのばしていた地方豪族たちや、在庁官人のなかに取りこまれていき、
のちの東国における武士団の成長に関わっていったのでしょう。平将門や平忠常があっという間に
房総や周辺国を制圧したのも、馬の機動力の賜物です。
鉄の話しからそれてしまいましたが、4世紀から5世紀にかけて東国と帰化人の関係が見られます。
それから、妙見信仰と畿内帰化人との関係ですが、奈良時代末期・称徳天皇のころ、河内国安宿郡内
に妙見菩薩を祀るお寺が造られました。現在の大阪府南河内郡にある天白山妙見寺とのことです。
妙見信仰は帰化人によって伝えられた、道教・仏教思想に基づく信仰で、帰化人との結びつきが顕著に
見られるものです。古代の関東では、彼らによってさまざまな技術が伝えられていきました。
馬の生産地と妙見信仰の広まった地域(信州から上野にかけて)はほぼ一致していますから、秦氏を
含めた帰化人たちは、上野から信濃のあたりに散らばったのではないでしょうか?
千葉さんがおっしゃるように、軍勢を養うにはそれなりの財力が必要になってきます。房総の馬は
奥州・出羽・常陸に次ぐ、かなり高い値段で取引される良馬として有名でした。また、それを飼育
する技術というのは、その昔に帰化人から授かったものと思われます。「馬」「鉄」「帰化人」は
1つの枠にひっくるめて考えてよさそうですね。
[ 在来の馬について・・・長崎対州馬ページより ]
体高は、107cm〜136cmで、平均メス125cm・オス127cm位で小さい。
性格温順、粗食にたえ、負担力に富み、山路を上下するのに巧み。
蹄(ひづめ)が強靱なことが最も美点で、装蹄は行わない。肢蹄が強く険峻な坂路に最も適している。
北海道和種(どさんこ) 体高125cm〜140cmの中形馬
木曽馬 長野県開田村、岐阜県
124cm〜142cmの中形馬
わが国旧藩制時代産馬の遺残馬種
御崎馬(みさきうま) 宮崎県都井岬、国の天然記念物指定
124cm〜138cmの中形馬
わが国旧藩制時代産馬の遺残馬種
対州馬(たいしゅううま) 長崎県上県(かみあがた)郡、下県郡
体高107cm〜136cm(125cm〜127cmが平均)で、
小形馬と中形馬の中間
トカラ馬 鹿児島県トカラ列島、昭和28年鹿児島県の天然記念物指定
108cm〜122cmの小形馬
与那国馬 沖縄県八重山群島
109cm〜123cmの小形馬
宮古馬 沖縄県宮古群島
平均メス117cm、オス120cmの小形馬
野間馬 愛媛県今治市、昭和60年日本馬事協会より8番目の日本在来馬に認定される。
昭和63年今治市の文化財に指定し保護している。
体高107cm以下の小形馬
こんにちは柴田です。秦氏の辿った道ですか。秦河勝ていう人がいたような気がします。
聖徳太子の侍(?)だった気が…土佐の長曾我部氏は河勝の子孫ていわれていますが、
本当なんでしょうか。
(氏内) よくご存知ですね、彼は長岡京遷都や平安京遷都に深く関与しています。
彼がいなければ無理だったと思われます。長曾我部氏のイメージ似ていませんか。なんとなく。
六世紀終わりに書物から急に少なくなり同時に吉備では秦氏の集落ができていて、製鉄が
本格的に稼動してます。その後に四国へ流れたことは容易に推察できますが、なにしろ
古事記などが編纂されると帰化人は排斥されていったのです。それから馬の話ですが、
木曽馬という古代種があるそうでその馬はひずめが丈夫らしく蹄鉄の必要がないそうです。
蛇足ですが私竜馬が何故か好きで彼の放浪性はひょっとして渡来人の血が為せることだった
のではないか、そんなはるか遠い時空を繋ぐ楽しさがたまりません。 98/10/19 02:20:26
[ MEMO 002 ]1998.12.13 秦氏ーIKE氏ページより
岡山県総社市にある秦村のこと
伝説によれば岡田村の伊東家[岡田藩主]の用水口を秦村に求めて、荒平山麓石畳神社の下に
水路を開こうとしたものが現に長池と称し、昔は伊東堀といったという。
しかしこの工事が完成の見込み立たず苦心していた折から備前領の富原の庄屋小原七郎左衛門が
伊東家に内通し、夜の間に上原井手なるものを造ったので伊東堀は一部分の工事にみで終わった
という。小原の件は廷宝四年(1676)のことでこれより上原用水取入口を拡張して上原用水
の基礎ができた。これより後人は益を受けるに至った。小原七郎左衛門 本姓藤原氏、
下道郡富原村上原(神在)の人で庄屋であった。彼は義侠心に富み、農民の窮 を見て、
遂に上原用水取入口の拡張を約し、旧来の溝を改め大いに岡田領のために便を与えた。
確か資料の中で功を為した秦氏一族はそれぞれ藤原とかの姓を名乗ることを許された
と読んだことがあります。小原という人の先祖をふと重ねてみます。
[ MEMO 003 ]1998.10.19 吉備の鬼ノ城 ー 嵐山文学十号より
吉備の鬼ノ城
倉敷市の北部に接する総社市は、桃太郎伝説発祥の地である。その北方高台に鬼ノ城遺跡
があってこのほど全容が明らかになった。花崗岩で見事なまでに積み上げられ、敷詰められ、
高麗尺の二倍(58cm)もある角柱門を東西南北に持つ城が存在したのである。
六世紀には築城されていたことも発掘土器鑑定でわかった。山城であるが、城壁の石組みが
壊れないように排水口が計画的に設計され高度な完成された築城技術がそこに駆使されて
いるのである。朝鮮半島に顕著にみられる築城様式で韓国だけでも1200あるという。
明らかに、帰化人による築城である。その麓に秦という地名があり、秦原廃寺遺跡があって、
秦氏の関与が推測されている。 短期間に築城されたこと、麓の足守川護岸工事に
7000本の杭が使用されたこと(7世紀前半)、鉄鉱石を利用した製鉄遺跡が数多く
周辺にあることなどからかなり多数の秦氏ゆかりの集落が当時存在していたことを伺わせる。
京都・太秦に本拠していた秦氏との関連性に注目するのは当然であろう。五―六世紀にかけて
大和朝廷と密接に関係を有し、大和国家の民として一族まとめ寄与したこの帰化人集団を
考えれば為せることである。護岸工事の実績は五世紀末に葛野の大堰を造った記録もある。
機織り技術が京都では土木工事技術とともにクローズアップされているが、彼等の中に
製鉄技術を持つ人々がいたこととも疑う余地のないことであろう。
六世紀初め、京都では摂政になった聖徳太子との結びつきを深め広隆寺の建立や新羅・
任那の使者接待役等の表舞台での活躍がみられる。吉備国もまた対朝鮮半島諸国との外交の
先導的役割を担っていた。では、この山城は何を目的に築城されたのかが、次なる問いである。
私は、六―七世紀初めに築城が始まったと考える。大和国家に向けてのものではなく、
外交上の築城であったと考える。七世紀中頃朝鮮半島情勢は唐の介入が加わり不穏であった。
663年に白村江の戦いに敗れるや唐の圧力は最高点に達したと思われる。前後して九州や
四国・瀬戸内に築城が為されている。情勢判断に長けた吉備国が先んじて築城しても不思議
ではないだろう。この戦では吉備一国で二万人従軍させている。守りを固めることは当然であろう。
鬼ノ城が記録にないことは、大和国家の援助なしに築城されたことを意味していると考える。
造山古墳の規模は仁徳陵に匹敵する。国力の鼓舞といわれるが、むしろ外交上の理由で
巨大古墳墓を造ったと考える。吉備には必ず立ち寄るからである。
最後に残る問いは、桃太郎伝説である。地元豪族の祖先神は御友別であるが、吉備津神社に
納められているのは、大和から派遣され鬼神と対決して吉備を救ったとされる吉備津彦である。
記録では鬼神なるもの鬼ノ城にあって船を襲い吉備の民を苦しめ背丈高く、剛力でとある。
しかし、その正体は謎のままである。
[ MEMO 004 ] 木曽義仲メモ 1998.12.16
義仲に対する過去の記憶は無謀虐待武士という悪人のままに最近まで私の中に放置された
ままでした。ところが何ヶ月か前に「知ってるつもり」という番組で義仲の知られざる面が
紹介され新たな記憶が改正されて出来ました。巴御前のことも。そして、その余韻が冷め
やらぬ前に千葉氏のページを訪れた際に、何気なく目に止まったことがありました。
それはどことなく見覚えのある家紋でした。さらに足利氏の先代が信州であることを
同時に知りました。足利氏ゆかりの川田家の紋が我家の紋とは今確認してドキドキしています。
京都の洛西は寺社公家武士の所領に足利時代より細かく区分けされておりましたので
土着の農民の名も左・右衛門などゆかりの名が多く神社の寄進帳に記載されています。
我家の過去帳は1700年以後しかなく、冒頭に吉右衛門とあり、武士の子を養子に迎えた
庄屋の系図です。聞き伝えなものでそれと家紋の関係は定かではないですが不思議です。
それは期せずして少し前に意気投合した女性との会話が脳裏に残っていたからです。
「私の父は鎌倉で生まれていて、聞けば代々鎌倉の地から離れていないようでした。」
「鎌倉と足利ですか・・・当時を少し調べてみます。」それが調べる始りです。
「巴御前の武勇伝を今思い出しました。確か信州武士木曽義仲の妻。京都にいち
早く攻めながら頼朝に滅ぼされたとか。あなたの気質が巴御前に重なる・・・」
男は自宅に戻ってから、歴史人物辞典で早速調べた。それで分かった事は次の通り。
『巴御前は木曽の中原氏の息女で義仲は父を失った後中原氏へ養子に来た。
幼い時から一緒に遊んだ仲で無論正妻にはなれませんでした。
義仲が滋賀で倒れた後遺言通り生き延びたそうですが、没年不詳です。』
さらに男はネットで木曽義仲のページを見つけ問い合わせた。
「巴のその後については諸説あるので、どのように説明したものかと思います。
とりあえず義仲の死後、巴がいたと言われるところは、長野県、新潟県、
富山県などをはじめ愛知県など各地にあります。
(近々まとめようと思いつつ、まだHPに載せる目処はたっていません・・・)
ちょうど最近「平家物語の女たち」という新書が出たばかりで、巴の項もありますので、
そちらをご覧になるのも一つの方法かと思います。私個人としてはうなづけない部分も
ありますが、スタンダードな巴論ではあると思いますので・・」
という返信を数日後に受け取ったのです。 男が執拗に拘りを行動に移すのには、彼女が
何気なく語った一言にあるのです。「私達、前世の因縁で結ばれているようですね。」
男も同じ思いであった為に、素直に従ったのかもしれない。
[ 義仲に関する情報 ] (西川さん等 のページより転載)
義高は義仲の大切な息子。義仲には5人の男女の子どもがいたそうですが、彼はその長男。
大姫との悲恋を伝える「志水物語」は有名と思います。1183年、義仲と頼朝の関係
の雲行きが怪しくなり、一触即発の危機!ってときに、義仲は、戦をするって手もあったんだけど、
その時はあえて流血を避け、大事な義高を大姫にくれてやるということで、
頼朝の元へやらしたのです。義高はもう10歳近くなってたので、何のために自分が鎌倉へ
行くことになったか、ちゃんと分かってたので、鎌倉で自分の仕事をこなすように日々を
うまく過ごしてました。義仲の息子がかっこよくないわけがなく、大姫は義高にゾッコン、
2人はガキな割に結構いい仲になっていました。1184年、頼朝は義高を預かる身であり
ながらその父義仲を追討、義高も鎌倉に長くいられなくなり、北条政子の支持もあり、
女装して逃走する計画を立てるが、結局捕らえられ、殺害。義仲というと「乱暴狼藉」
「野蛮」といわれることが多く、あらあらしい印象ですが、私は
決してそういう人物ではなかったと考えています。平家物語でも「見目麗しい男」と出てきますし、
義仲寺に伝わる義仲像などは大変にクールな表情で、観音様のようです。まあ、そういった外見は
さておき、義仲に関するこんなエピソードがあります。
有名な「義高を鎌倉へ人質に送った」という出来事がありますが、どうして義仲は頼朝の無理な
申し出を受け入れたのでしょうか。
これに関しては「頼朝の方が兵力が多く強かった」みたいな書かれ方をしていることが多いのですが、
奇襲を得意とする義仲軍が本気になれば、勝手知ったる信濃国の奥へ頼朝の軍をおびきよせ、
城氏を打ち破ったときのように撃破することも可能だったと思います。
つまり義仲は「非好戦的な人物」だったのではないでしょうか。無駄な血は流したくない。
一族の者とは出来るだけ仲良くしたい・・・。
その証拠に義仲は頼朝に追われた厄介な叔父を抱え込み、京都でも源氏を名乗る人々を仲間
に加えています。まさかそれが自分の立場を危うくするとは思わずに・・・。
他にも義仲は勝てる戦いをわざとしなかった場面がいくつかあります。私は、義仲が何にも
考えない野蛮な人であれば、頼朝に戦いを挑んで勝ち、京はとっくに焼き払われ、
御白河院は殺され、平家は義仲に滅ぼされ、義経は奥州藤原氏の軍勢を率いて義仲軍と
対峙していたのではないでしょうか。
そんなIFストーリーも見てみたい気もしますが、私は「情」がありすぎて滅んでしまった
義仲が好きです。
義仲については現在、東京新聞、中日新聞などで「木曽義仲」という新聞小説が連載されています。
作者は山田智彦氏です。単行本になると小耳に挟んだのですが、いつ頃なのかは私も知らないです。
(情報がはいりましましたらお知らせします。)また、6年くらい前に銀河書房という長野の
地方出版社から発行された「兼遠と義仲」(小林清三郎著)という地方史研究本があり、
山田智彦氏の「木曽義仲」はこれをベースにして書かれているようです。義仲について
かじった人なら、とても面白い本なのですが、地方の本なので、もう取り寄せられないかも
しれません。その他、昭和50年代頃発行された、畠山次郎著「木曽義仲」という本も読んだ事
があります。複写をとらなかったのでうる覚えなのですが、地元の郷土史家の方の本で、
(たしか地元で教鞭をとっていた方だったと記憶しているのですが、違うかもしれません。)
経済的側面から中原兼遠の経歴・人となりについて推測している本でした。簡単に説明すると、
「義仲を支えたのは木曽から豊富に取れる木材を都に売りさばいていた 中原兼遠の財力だった
のではないだろうか」というような内容でした。兼遠について踏み込んだ推測をしたのは
この本が初めてだったようで、中原家ゆかりの方々(樋口家など)の間ではおおきな波紋を呼び、
その後、中原家ゆかりの方々に伝わる系図を中心にした「兼遠と義仲」が発行されるにいたった
ようです。この他、現在郷土史で義仲を取り上げている方で長野県日義村の田屋久男氏
(義仲にまつわる自費出版の著書多数。日義村の義仲館で販売しています。)
埼玉県嵐山町の長島喜平氏(「朝日将軍木曽義仲 史実と小説の間」を国書刊行会
より発行されています。)がまとまったものを発表されています。長島氏の本は、
新宿の紀伊国屋で今でも見かけますので、取り寄せ可能かもしれません。
義仲のみの内容の本を探すなら、郷土史にあたるしかないかもしれないです。
NHKの人形劇は「新平家物語」で、そこで山吹は巴の部下(でしたっけ?)の
女武士として登場していたと思います。(違ったらごめんなさい。)実際に山吹は
いたのかといいますと、いた事は確かなようですが、実態は闇の中です。
山吹に関する伝承は、長野県木曽・下諏訪・滋賀県・埼玉県・愛媛県・愛知県・石川県
などに散在していて、義仲に関する家の系図などを合わせて考えると、
@長野県東信地方の豪族 海野家の娘A長野県下諏訪の諏訪大社下社の大祝の娘もしくは
その血族(金刺or手塚氏)の二つが有力視されています。(最近は海野説が一般化
しつつありますが。)ちなみに新平家では義仲の首を山吹が持ち去ったというエピソードが
あったと思うのですが、これは大津市の伝承が下敷きになっています。山吹は晒された義仲の首を、
笹の葉にのせてずるずるとひっぱって行ったそうです。現在も「山吹の笹ひきの道」
と言われるところが残っています。ちょっとオカルトちっくです。 諏訪大社は義仲軍にも
参戦しているので、上田の図書館にあった地方誌を中心に調べた事があります。結構前なので、
あいまいなところもあるのですが、諏訪大社には上社と下社があり、それには古代からの確執
があったと記憶しています。
もともと、大和朝廷が出来る前の事、諏訪の近辺には「モリヤ氏」という豪族がいたようです。
ところが、そこに大和での勢力争いに敗れた豪族(後の「諏訪氏」)が逃れてきて、
「モリヤ氏」を従わせて勢力を張りました。これが上社の起こりです。大和朝廷はその勢力
を恐れ、信濃の国とは別に諏訪国を設置したそうです。
また阿蘇氏の系統の「金刺氏」に「諏訪氏」を押さえさせるため下社を作らせたそうです。
そのため、「上社」と「下社」は牽制しあいながら歴史を重ねてきました。
平安末期になると、上社と下社にはそれぞれ武士団ができました。上社が頼朝に好意的だった
のに対し、下社は義仲を血縁に取り込み、社の命運をかけて戦いました。(木曽の最期に出てくる
「手塚氏」は下社の血縁です。)しかしその結果は義仲の敗死に終わり、下社は存続の危機に
さらされました。大祝の金刺盛澄は鎌倉幕府に呼び出され、頼朝に討たれそうになります。
その時、梶原景時が、「金刺氏は非常に武芸に優れているので殺すのは忍びない」と頼朝に進言し、
「もし、頼朝の前で流鏑馬に成功したら、罪を許す」という事になりました。そして金刺盛澄は
流鏑馬に見事成功、頼朝に取りたてたらしい。
[ MEMO 005 ]1998.12.16 巴御前
中原兼遠の娘といわれるが縁者の子女を養女にする風習が当時あったということから断定は
できない説もある。また妾というのも断定できないらしく桂女みたいな風習もあったという。
義仲が倒れた後の巴御前のその後は信濃に戻るとか鎌倉にその後召喚されて頼朝の家来の
妻になったとか、尼になって91歳まで生きたとか伝わっている。
夫は和田義盛という頼朝の当初からの御家人の長の一人。頼朝亡き後15年程も生きて
乱起こし没する。巴は越中辺りに移り余生を過ごしたという。巴の鎌倉召喚時の年令は
22歳・28歳・30歳・32歳など書物により異なる。「源平盛衰記」の28歳が
義仲の年令からして妥当と思われる。すると鎌倉には56歳まで過ごしたことになる。
小野小町伝説と同様に各地にあるらしい。
鎌倉説があるということは存外可能性が皆無ではないということである。冒頭の話であります。
私が歴史に関心を寄せる一つの方法なのです。何らかのロマンを組み立ててそこから詳しく
調べていく。意味がないと無関心で過ごす人が多いのですがロマンもまた偉業の源泉に
なりうることを語りたかったのです。
桂女については、嵐山の歴史でいづれ扱うことになります。ごぜみたいな下女のことです。
舟遊びや御茶屋があった嵐山などで働いていた人です。それが全国に伝わっているのです。
桂とは桂川の桂です。
[ MEMO 006 ]1998.12.17 木曽の系図 (千葉の柴田氏のページより)
私の先祖の家紋が川田氏の家紋であることから調べてみました。
過去帳の冒頭1700年頃先祖の名前は吉右衛門です。
木曽氏系図の末尾に義久(右衛門尉)とある。京都にて従事したことがある。
川田氏の歴史
1.家紋は「丸に隅立四つ目結」紋です。この紋は宇多源氏佐々木氏がよく使う紋所ですが、
現在のところ川田氏と佐々木氏の繋がりを見つけることはできません。
2.菩提寺は足利市内の法玄寺(浄土宗)。このお寺には鎌倉草創期の足利義兼の妻(北条時子)
の供養塔があります。背後の山がすべて墓地で、この高台からは足利市内が一望できます。
法玄寺の隣の山には織姫神社があり、ここから見える渡良瀬橋の夜景はすばらしいものがあります。
3.江戸時代から現在まで、「池澤屋」という酒屋を営んでいます。本店は通4丁目にあり、
支店は通1丁目店と伊勢町店と永楽町店の3店舗がありました。通1丁目の店は旧跡・足利学校
のすぐ裏手にありましたが今はありません。通4丁目の池澤屋本家は織姫神社のすぐ側にあります。
我が家の先祖「池澤屋」は通一丁目の流れで、足利学校の真裏の通りから通りにいたる細長い
店でした。戦後、焼け出された人に蔵を貸し与えていましたが、そこに住んでいた人が、
家人に内緒で勝手に蔵の中のものを売って生計を立てていたのです。これに関して母方の曾曾祖母は
大事にはせず、他の人に家屋敷を売り渡して通り一丁目池澤屋は閉店しました。
4.栃木県佐野地方が川田家の発祥地と聞いたことがあります。下野国西佐野の岩崎城主に川田氏が
いました。「木曾氏系図」内に見える「沼田」はおそらく下野国沼田をさすものと思われます。
また、川田氏系図の初代としてあげられている木曾義基は、その弟で下野に関係の深いとおもわれる
義宗とは代々縁組みをし、義宗流・木曾信重は、義基流・木曾家教の実子として書かれており、
「木曾氏系図」の通字「重」・「義」が川田氏にも使われていることから見ると、もしこの
木曾氏系図に間違いがないとするならば、義宗流木曾氏に入った義基流木曾氏の子孫と見る
ことも可能です。しかし、この義基から義氏までの9代が不明です。
−木曾氏略系図−
上図を参照のこと。
−川田氏略系図−
→木曾義基…<9代略>…義氏(岩崎左馬助)−重義(左馬助)−重長(同)−重久(舎人・岩崎城主)
−正次(佐野隼人)−重次(内匠)−重行(川田重蔵)
5.下野の川田氏はほかに、河内郡川田邑から発祥した那須一族が見えます。
―那須氏略系図―
→那須宗高(与一)=資之−頼資(肥前守)−資氏(資成とも。川田六郎)
6.幕末、下野国都賀郡永野村出身の酒造業者・川田太郎高吉がいました。高吉は幼名を吉太郎
といい、幼い頃から武術を好み、内藤民部に入門して剣術を磨きました。その他、俳句にも
造詣が深く、「酒泉」との雅号を持っていました。
慶応3(1868)年11月、出流山で反幕の義挙があると、いち早くこれに参加し、岩船山
に転戦しました。ここで彼は出流山守衛隊長に推薦されて幕府軍を迎え撃ちました。しかし、
幕府軍の鉄砲によって胸を撃ち抜かれて死亡しました。25歳でした。
7.上野国沼田に三浦一族の沼田景久の4男・川田四郎景信が、沼田本城の南に
出城的役割として、応永13(1406)年、川田城を築いて「川田」を称しました。
[ MEMO 007 ]1999.1.10 義仲寺(ぎちゅうじ)ー京都新聞よりー
琵琶湖南端に近江大橋がありますが、その西岸より少し南に行くと義仲が討死にした粟津ヶ原があり、
北に上がると義仲や巴御前の墓がある「義仲寺」があります。
「義仲寺」にある巴塚は故郷の長野県木曽郡日義村「徳音寺」(巴御前の墓がある)から寄進された
もので義仲の墓に付き添うように佇んでいる。「義仲寺」が今日も知られ親しまれているのは、
松尾芭蕉の墓がある為で芭蕉の遺言でここに葬られたのです。生前芭蕉はこの寺をしばしば宿舎
としていた。無論義仲の墓があるからで以来「義仲寺」は俳人たちのメッカとなっているのです。
・ 行春をあふミの人とおしみける (芭蕉)
・ 木曽殿と背中合せの寒さかな (又玄)
など十九もの句碑と二つの歌碑があります。この寺はかって湖畔にありましたが埋め立てが広がって
いった為に現在は遠く離れ人家に囲まれた所に多くの史跡を寄り添わせ置いている。
「ぎちゅうじ」と音読みしている。伝えるところでは、義仲の死後いつのころからか、美しい
尼僧が住み着き、供養の日々を送っていたという。その人が巴だったという。しかし詳しい話は
ここには伝わっていない。芭蕉俳書のコレクションを収めた粟津文庫もここにある。
粟津から膳所に至る湖岸は夕陽や暁のとても素晴らしい光景を与えてくれます。私のお気に入り
の一つです。しかし、義仲のこと義仲寺のことは知りませんでした。通るたびに郷愁のような
不思議な安らぎが宿っていたことはハッキリと記憶にあります。
[ MEMO 008 ]1999.1.28 大原女・桂女・小原女・白川女(京都の女性史を読んで)
京都の近郊から商品を搬送した女性商人を居住地名をつけて「〇〇〇女」と呼んできた。
その代表が「大原女」で現在もよく知られている。始りは室町時代の1500年頃と
考えられている。もともとは炭と薪を運んでいたのですが近代になって野菜も扱う
ことになりました。十一世紀頃の文献に大原と炭の関係はあります。衣装はそれぞれの
地区独自のものですが共通するのはかぶり物をしていること。近郷から悪路を歩いて
運ぶ為という理由ですが、農作業の人々もかぶり物をしていて、どちらが起源かは
分かりません。大原女の長年の労働は彼女達の頭骨にくぼみを生じたといわれ苛酷さ
を伺わせる。大原女と同じく古くから呼ばれるのに桂女があります。
桂女は最初、鮎の鮨を売り歩くものであったが武士らの威圧要求から時には売春をしいられ
定着し武将の軍陣にも付いていったという。安産祈願を行なっていたと記されている。
産婆業務などもしていたという。
白川女は花売り行商で昭和15年頃には組合まで組織されていて醍醐天皇の頃からの
由緒があると地元ではいう。小原女は八瀬の大原女のことで柴売りから漬物・餅売り
へと変じている。